絶対ダメ…川で抱き合う母と娘、遺体だった もはや怖くない15歳女子、感情奪う戦争 無数の小さな手の意味

東京大空襲の体験を講演した名倉幸子さん(左)と感想を話す子どもたち。左奥は森裕子校長=9日午前、さいたま市中央区の与野本町小学校

 78年前の東京大空襲を体験した名倉幸子さん(93)=埼玉県さいたま市=が、市立与野本町小学校(児童数537人、森裕子校長)で、6年生を対象に講演した。無数の焼夷(しょうい)弾により火の海と化した街、土手に並んだ人形のような遺体。名倉さんは当時の心境を語り、「戦争の恐ろしさは、人間の感情や思考力を奪うこと。戦争は絶対に起こしてはいけない」と平和の大切さを子どもたちに訴えた。

 太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機の大編隊が来襲した。東京の下町を中心に約38万発の焼夷弾が投下され、推定10万人が死亡したとされる。名倉さんは当時15歳。午前0時15分に空襲警報が鳴り響き、すぐに飛び起きた。夜空を見上げると、「いつもはトンボぐらいにしか見えない敵機が、オオワシが羽を広げたように見えた」と振り返る。

 関東大震災を経験した母親は、掛け布団を防火水槽に入れて水に浸し、名倉さんの頭からかぶせた。ものすごく重く、「布団を捨てて逃げよう」と母親に訴えたが、「火が付いたらどうするの」と厳しい声で言われ、飛んで来る火の粉をよけながら逃げた。

 近くの小学校に避難して、母親と一緒に自宅の方向を見ると、一面は火の海で、ぼんぼんと燃えていた。自宅にお雛(ひな)さまや習っていた琴を飾っていたことから、「大切にしていたものが全部焼けた」と思ったという。

 空襲後、兄と一緒に墨田川の土手に行くと、お人形さんが見えた。川から引き揚げられ、並べられた遺体だった。顔のよく似た母親と娘が抱き合っている姿が記憶に深く刻まれている。小さな手をあちこちで目撃した。子どもの手ではなく、焼けて小さくなった手だった。「怖い、かわいそうという感情が湧いてこなかった。戦争によって、感情や思考力を奪われていた」

 名倉さんはロシアによるウクライナ侵攻に触れ、「心が痛みます。普通に暮らすこと、平和がどれほど大切か。平和が続いてほしいと思う。戦争を絶対にしてはいけないと伝えてほしい」と呼びかけた。

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