<硫黄島に散る>太平洋戦争開戦81年 遺族、戦死の父思い「平和は築き、守るもの」

信三さんが妻に宛てた戦地からの便りと生前の本人の写真、戦没者通知

 篠﨑洋子(79)=長崎県諫早市宗方町=は近年になって、戦死した父、中西信三が陸軍戦車第二十六連隊に所属していたことを知った。戦後、防衛庁(当時)が編集した戦史叢書(そうしょ)によると、同連隊は1944年4月25日、満州(現在の中国東北部)牡丹江で編成され、総員672人。同7月14日から8月30日にかけて硫黄島に到着し、ほかの部隊とともに守備の任に就いた。東京とサイパンのほぼ中間に位置する小笠原諸島唯一の平たんな島は、三つの飛行場を持つ重要な戦略拠点だった。
 満州をたった後に信三が妻多津子=故人=に宛てた便りは、全て「横須賀郵便局気付」。検閲を受けた文面に「硫黄島」の文言はない。表面には日付が手書きされている。最後は45年1月4日。そのはがきには達筆な文字で、こうつづられていた。
 「お前が便り書くかたわらで、いたづら書きする洋子の姿を想い浮べては独り充ち足りた気持になります。あの楽書の鉛筆の跡をたどって行くと、ぽっこりと洋子の笑顔が浮び上って参ります」
 米軍が硫黄島の南海岸に上陸を開始したのは、それから間もない2月19日。戦没者通知が父の戦死日とした3月17日は、総司令官の栗林忠道中将が「玉砕」を前に「散るぞ悲しき」で知られる決別の電報を大本営に送った日だ。硫黄島陥落で日本は本土防衛のとりでを失うことになる。
 洋子にとって悲願だった慰霊の旅。戦傷者が収容された壕(ごう)は冬にもかかわらず、火山島の地熱で蒸し風呂のようだった。眼鏡は一瞬で曇り、息苦しい。過酷な地で米軍の猛攻にさらされた死の間際、父のまぶたに浮かんだのは何だったのだろう-。胸が締め付けられた。
 戦後、母は地元の農協で懸命に働き、女手一つで洋子を育て上げた。戦争や父について多くを語りたがらなかった。「思い出すのがつらかったんでしょう」とおもんぱかる。
 ただ一度、こんなことがあった。母が70代の頃。かかった病院で父と面影が重なる男性を見かけたらしい。「お父さんに似とる人がおったとよ」。母は、そううれしそうに話した。父からの便りを形見のように保管していた母。今、思う。大切な人を奪われ、歯を食いしばって戦後を生きた多くの遺族も戦争の犠牲者にほかならないのだと。
 太平洋戦争開戦から8日で81年。父の写真を手に洋子は言った。「何の罪のない子どもまでもが殺される。それが戦争。戦争がもたらすのは破壊のみ」。ロシアのウクライナ侵攻や領土問題など世界では終わりの見えない争いが続く。「平和とは自分たちで築き上げ、守っていくもの。平和が当たり前のようにあるわけではないことを知ってほしい」。そう力を込めた。


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