<日中国交正常化50年①> 元長崎市助役、宮川雅一さん(88) 福州との友好都市締結に尽力

福州市との友好都市締結に始まり、長崎と中国の歴史研究も続ける宮川さん=長崎市内

 1972年9月の日中国交正常化から29日で50年を迎える。鎖国時代も含め古くから貿易を続けてきた長崎は中国とのゆかりがひときわ深く、食や祭りといった市民生活にさまざまな中国文化が溶け込んでいる。行政や教育、経済など各分野で両国の絆を育んできた人たちに半世紀を振り返ってもらい、これからの交流のあるべき姿について聞いた。

 「中国は一つ」-。71年5月、当時の久保勘一知事(故人)が県議会で発言したのをきっかけに、翌年9月の日中共同声明調印から1カ月後の10月、久保知事を団長とする県友好訪中使節団が全国に先駆けて海を渡った。その後も「九州青年の船」、「県青年の船」が相次ぎ訪中。79年には長崎-上海定期航空路が開設されるなど官民一体の動きが続いた。
 自治省(現総務省)から古里の長崎市助役に転じたのが79年。大きな仕事の一つが、80年10月に実現した福州市との友好都市締結だった。
 80年6月、市の先遣団・経済調査団を率いて福州市へ。川砂、石材、水産物などの生産現場を回り、輸入の可能性を模索した。
 セメントの原料となる川砂などは日本での需要が高く、豊富な資源に恵まれていた福州市との経済交流はメリットがあると考えた。しかし、合弁形式や輸入に際して補償金を求める中国との商慣行の違いが課題だった。
 港湾建設や鮮魚の冷凍輸出など日本の先端技術、自由主義経済における商品知識や経営知識の習得などを中国側が求めていることも理解できた。「貿易を盛んにして、経済交流を発展させることが両市の経済浮揚につながる」-。課題を抱えつつも双方の利害は一致し、民間主体の経済交流が活発化した。
 長崎市を皮切りに友好・姉妹都市を締結する動きが県内で広がった。その後、中国が目覚ましい経済成長を遂げる状況をみると、長崎市との友好都市関係締結が中国の発展に貢献したという思いはある。
 長崎市への中国総領事館開設(85年)を要望するために、自治省の先輩だった当時の高田勇知事(故人)と訪中したことも。九州で福岡とともに総領事館を開設できたのは、長崎華僑総会の兪雲登(ゆうんと)会長(故人)ら長崎在住の華僑の尽力が大きい。
 助役を退いてからは長崎に息づく中国の歴史研究を通して、関係の深さを実感している。中国の影響が色濃い黄檗宗(おうばくしゅう)寺院である国の重要文化財、聖福寺(同市玉園町)の修復を支援。昨年から10年がかりで進んでおり、何としても完成を見届けたい。


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