長崎日大が選抜出場決定 平山清一郎監督 他界した父への「感謝」を胸に

亡き父への感謝を胸に監督として初の甲子園出場を決めた長崎日大の平山監督。朗報後も表情を緩めず選手たちを見守った=長崎日大学園野球場

 長崎日大を率いる平山清一郎監督(42)は第94回選抜高校野球大会の出場校が発表される約2週間前、予定を早めて父・松義さん(享年71)の一周忌の法要を済ませていた。昨年1月30日に急死した「自由奔放な頑固おやじ」の協力がなければ、今の自分はない。監督になって初めての甲子園を見せたかった。あと1年早く、この吉報を届けることができていたら…。喜びとともに、感謝と寂しさが入り交じる熱いものが込み上げてきた。

■協力者

 3兄弟の長男として諫早市で生まれた。小学生でソフトボールを始め、明峰中軟式野球部を経て長崎日大へ入学。3年時は主将兼捕手で、春の第100回九州地区大会で優勝した。日大進学後も競技を続け、2002年に社会科教諭として母校に赴任。野球部の副部長や部長を務め、18年夏の終わりに監督に就任した。気付けば、指導者人生は20年になった。
 そんな野球漬けの日々を後押ししてくれたのが父だった。「好き勝手な人で母が大変だった」という記憶が一番だが、小学時代はソフトボールチームのコーチを務め、中学2年以降は単身赴任していた五島市から応援に駆けつけた。高校進学の際も背中を押してくれ、主将になると、父は保護者会長になった。
 指導者になった後も、欠かさず試合を見に来てくれた。05年には退職金を前借りするなどして、自宅兼選手寮をつくった。料理好きの母も一緒に世話をしてくれた。「もうけにもならないし、息子の教え子のためにそこまでやってくれるのか」と感じるほど助けられた。自らも家族で寮の隣に家を建て、3世代で暮らすのが日常になった。けんかもしたが、十数年の間に寮から甲子園メンバーも複数出た。一番うれしそうにしていたのは、父だった。

■突然死

 多くを語り合うことはなかったが「次は監督として甲子園に」と期待していたと思う。だが、別れは突然だった。昨年1月30日。ゴルフ場で倒れて救急車で運ばれた。「もうだめかもしれない…」。電話越しの母の言葉が理解できなかった。学校から病院へ急いだが、最後の会話も交わせずに旅立った。心臓発作だった。
 父が最後に見た試合は地元開催だった20年秋の九州大会。春の甲子園を目指した中、初戦でコールド負けした。それから1年間、各大会の前は仏壇に線香を供えて臨んできた。そして昨秋、2年連続で県で準優勝して、九州で4強入り。もし父が生きていたら、どんなに喜んだだろう。
 後輩でもある選手たちの指導者であると同時に、諫早高1年で野球部マネジャーの長女、小学6年で中学で野球を続ける長男の父でもある。自らも人の親になって、しみじみと感じる。「父には感謝しかない」と。

■責任感

 就任4年目で監督で初の甲子園。チームとしても23年ぶりの春舞台になる。県2位、九州4強からの選出には満足していないし、出場が決まっただけだ。ただ、県勢で平成最多11度の甲子園出場を誇る伝統校の再起、選手たちの成長に向けての貴重なステップアップになると確信している。この日の朗報後、ほとんど表情を崩すことなく、直後の練習でのそれは強い責任感がにじんでいた。
 「見せてあげられないことは残念だけれど、引き続き応援してくれると思う。チーム全員で一つのボールをしっかり追いかけて、ひた向きに戦いに行く」。亡き父へいい報告をできるように。


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