米同時テロ20年 関係者が語る 佐世保基地の変化 「アメフェス」復活に12年

今も基地と地域との関係性は深いが「警備が強化され、少し寂しくなったと感じる」と語る山縣さん=佐世保市内(画像の一部を加工しています)

 2001年9月11日の米中枢同時テロから20年。米海軍基地を抱え、毎年夏には日米交流イベント「アメリカンフェスティバル」が開かれるなど、佐世保市民にとって基地は身近な存在であり関係性は深い。市民の目に、テロによる基地の変化はどう映ったのか。当時を知る関係者に聞いた。
 「基地には、入ってきた車両の逆走を防止する装置がある。あれは同時テロの後に設置されたと記憶している」。基地に30年以上勤めた長崎県佐世保市の60代男性は、基地のメインゲートを例に変化を語り始めた。
 テロ発生を知ったのは11日の午後10時ごろ。仕事を終え、まさに車で帰宅しようとしていた時に同僚から電話で知らされた。自宅に戻ると、テレビが映し出す光景に「これは現実なのか」と目を疑った。
 一夜明けた12日。基地はロックダウンされ、中には入れなかった。「本国であれだけのことが起きた。次のテロも懸念されたので『やっぱりか』と思った」。ロックダウンがいつ終了したかは覚えていない。テロ発生後、警備は強化され基地内は「ピリピリとした雰囲気」が数カ月間続いた。
 基地内に入る車両は、トランクを開けたり車両の下の部分を鏡で確認したりするなど、爆発物の有無を入念にチェックされるようになった。基地の海に面した部分には有刺鉄線付きのフェンス。関係者が基地内に同行できる知人の人数は減らされ、身分証の確認も必要になった。「爆発物が仕掛けられた」という想定で、不審物を探し警備担当者へ報告する訓練も加わったという。
 雰囲気が堅苦しくなった一方、業務を遂行する仲間として、米軍の日本人に対する友好的な姿勢は変わらず「それがせめてもの救いだった」。男性はそう口にする。
 米海軍佐世保基地内のニミッツパークなどで開催されている「アメフェス」は警備基準の厳格化により03年から中止され、15年にようやく復活した。テロ発生の翌年、佐世保青年会議所(JC)の副理事長として運営に携わった山縣雅義さん(55)も「テロを境に、米軍のセキュリティーに関する考え方がごろっと変わった」と述懐する。
 入場者に対して、02年は身分証確認や手荷物の検査、金属探知機によるチェックが加わった。「何か起きないようにするためなんだ」と頭では理解している。だが「佐世保ですら、ここまでしないといけないのか」。山縣さんの心中は複雑だった。
 02年は何とか開催したが、翌年は米軍が提案する制限がさらに増加。「これではお祭りとして成立しない」。理事長になっていた山縣さんは、1985年に始まったアメフェスの中止を断腸の思いで決めた。
 米軍関係者との交流は今も続き、基地が身近な存在であることに変わりはない。それでも「昔に比べると少し寂しくなったかな」。その口ぶりからは、少しの距離感が感じられた。


© 株式会社長崎新聞社