「思い伝えることが世界変える」山田拓民さん90歳 死去 被爆者運動けん引

国の原爆死没者調査を批判する長崎被災協の山田拓民さん(中央)と山口仙二さん(左)、谷口稜曄さん=1990年5月、長崎市役所

 長崎の被爆者団体、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の元事務局長、山田拓民(ひろたみ)さんが28日、90歳で亡くなった。1983(昭和58)年7月の事務局長就任以来、山口仙二さん、葉山利行さん、谷口稜曄(すみてる)さん(いずれも故人)の歴代会長らと歩み、2016年3月の退任まで約33年間、被爆者援護、核廃絶の運動を地道にけん引した長崎の代表的被爆者の一人だった。
 被爆の苦悩、戦争や核保有国への怒り、核の傘に頼る日本政府への憤り-。そういったことを山田さんは、国内外の情勢も踏まえ論理立てて痛烈な言葉で表現できる被爆者だった。だからマスコミは核を巡る問題が起きると、まず山田さんの元に駆け付けた。取材にいつも丁寧に答えてくれたのは教育者だったこともあるだろうが、被爆者の思いや見解を広く伝えることが世界を変えることにつながると考えていたからだ。
 14歳のとき、鳴滝の旧長崎中の教室で被爆。城山で被爆した母、姉、弟2人と再会を果たすが、次々に亡くなっていく。せっかく助かった命を強烈な放射線が奪っていったのだ。姉と下の弟は自ら荼毘(だび)に付した。大やけどを負った父だけが生き延びた。壮絶な体験だが後年、山田さんはあまり語ろうとはしなかった。
 長崎大を卒業後、宮崎県の高校に商業科教師として赴任。その後、長崎市立長崎商業高の教壇に立ち、教職員組合の活動に没頭する。
 1983年、長崎被災協の会長になった山口さんが会いたがっていると聞き、面会。いきなり事務局長就任を説得され、引き受けたところから山田さんの被爆者運動は始まった。
 全国規模で実施された被爆者要求調査の調査票を読み込む中、底辺の被爆者の現状を知った。長崎被災協の実務的な運営はもとより、長崎原爆松谷訴訟や幅広い認定支援などに粘り強く取り組んだ。
 8年前の2013年7月、雲仙市で執り行われた山口さんの葬儀の帰途。車で送ると昔の活動のことをなぜか冗舌に話してくれた。長崎被災協の役員会は北松や離島の支部からも集まり、夜になっても酒を酌み交わし議論を続けたという。被爆者援護法成立に向けては、県内自治体の議会を回るなどして賛同決議の採択を働き掛けた。山田さんを運動に引き込んだ山口さんとの別れが、活発に活動していた時代を思い出させたのかもしれない。
 話が途切れたとき、こう言った。「(被爆者たちは)よう動いてたもん。被爆70年が過ぎたら持たんのじゃなかろうか。そんな気がするよ」。焦るような細い声が忘れられない。
 無数の被爆者たちと共に長年進めてきた援護活動と核兵器廃絶運動のこれからについて、自らが老いていく中で不安感が増していたのだろう。
 被爆地長崎はこれからどう歩んでいくのか。山田さんは心配しながらも戦争と核兵器の不条理を伝え続けて、と願っているはずだ。この世界を変えるために。

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