<未来へ>悲しみ、苦しみには節目はない 人をつなぐ「接着剤」に

東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町。10年を経て整備された市街地=同町(佐藤さん提供)

 東北地方では10年の節目の「3.11」を前に、テレビ、新聞などで連日震災報道が続いている。2月13日、東北を襲った震度6強の地震は住民の心の奥底にあった「恐怖」を呼び覚ました。
 しかし、長崎ではどうだろう。震災は東北だけの話となっていないだろうか。元南島原市職員で、今は宮城県南三陸町の復興に携わる佐藤守謹(もりちか)(41)はこう感じている。
 震災の惨事は心の奥底に閉まっていたい記憶だ。簡単に聞けるものではない。お互いに心を開いて出てくるものだ。ある時、父親を亡くした20代の男性職員が心情を話してくれた。両親と弟の家族4人暮らしで当時中学3年生。登校時には自宅2階から手を振ってくれたり、休みの日にはキャッチボールをしてくれる子煩悩な父だったという。
 どう亡くなったかは彼に聞いていない。遺体の腕時計の針は地震発生から約1時間後の午後3時42分で止まっていた。「ハタチ」でもらう約束だった。彼は「ウイスキー好きだった親父と酒を酌み交わしたかったな。大人同士の会話もしたかった」と肩を落とした。
 町民との会話では「あの日」とか「あれから」という言葉がよく出てくる。あの、あれは「震災」を指す。時間軸が震災に設定されているところに根深さを感じた。10年という「節目」はあると思う。だが、大切な人を失った悲しみ、苦しみには節目はない。生涯続いていく。
 グローバル化によって、われわれは世界中のあらゆる災害を映像で見ることができる。さまざまなデータ分析から対策を講じ、自然を制した部分もあるのかもしれない。しかし、それは過信ではないのか。2月13日、初めて震度6弱を体感した。家は揺れ、道路には亀裂が入り、隆起していた。自然を前にわれわれは「無力」だと痛感した。
 骨組みのまま残る旧防災対策庁舎を含む町震災復興祈念公園が昨年10月に全面開園するなど町並みは整備された。震災の痕跡を示す建造物は、同庁舎や327人の命を救った高野会館、大津波の到達を伝える「波来の地」の石碑ぐらいだ。
 「これから」を危惧している。住宅や防潮堤、道路、被災者支援など町民の暮らしを支えていた国の復興予算は発生から10年間で計約32兆円が投入された。しかし、新年度から5年間で計約1.6兆円(繰越金約7千億円含む)と大幅に縮小。町役場には一時期、全国から最多110人の応援職員がいたが、次第に減員。最終的には約190人の職員で通常業務に加えて震災関連業務を続けていくことになる。
 南三陸をパズルに例えるならピース(人)が一つ欠けても町は存続できない。だからこそ「問題解決のために、ピースをつなぐ接着剤のような職員になろう」と思う。
 (文中敬称略)
 =おわり=

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