村の境界石 川から引き揚げるも、新たな謎 長崎県諫早市

境界石(中央)を移設したあけぼの会メンバー=諫早市、船津蠏喰公民館そば

 かつて長崎県諫早市の旧深海(ふかのみ)村と旧東長田村の境界を示す石柱が先月末、同市の深海川で見つかった。同町の旧青年団でつくる団体「あけぼの会」が23日、重さ約230キロの石柱を川から引き揚げ、もともとあった川近くの船津蠏喰(かにくい)公民館そばに移設した。石柱の発見は2基目だが、刻まれた建立年とみられる年号を巡り、村の合併を繰り返した地域の歴史に新たな謎が浮かび上がった。
 石柱は高さ約1.5メートル、幅25センチ。表面に「西 東長田村 東 深海村」、「慶應元乙(きのと) 丑閏(うしうるう)五月下旬」と刻まれている。同会によると、石柱は同公民館近くの深海川中流の真ん中に2~3基あり、1957年の諫早大水害前までは、住民が川で泳ぐ時に休憩したり、石柱につかまって遊んだりしていたという。
 いずれも水害で流され、行方不明になっていたが、同会の立野政美さん(72)が2013年、田んぼのあぜ道に再利用されていた1基を見つけた。さらに、立野さんは先月30日、深海川の下流に打ち上げられた別の石柱を発見。同会メンバー約20人が23日、石柱にロープを結び付け、2本の竹の上を滑らせながら、川から引き揚げ、同公民館そばに建て直した。
 新たな謎とは、見つかった石柱に刻まれた「慶應元(1865)年」の年号。7年前に見つかった石柱では不明だったため、同会は、東長田村と深海村が隣接することになった1876(明治9)年以降の10数年の間に建立されたと推定していた。
 しかし、今回、両村が隣接していない時期(慶応元年)にもかかわらず、両村が東西に位置していることを示す文字が刻まれていた。同会メンバーは「慶応元年当時、両村の間には別の村(白濱村)があり、隣接していないのに、なぜ、両村を記した境界石が深海川の真ん中に設置されたのか、不思議」と首をひねる。
 同会は今後、境界石の設置年や川の中央に設置した理由などを解明する方針。

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