普賢岳から教訓 コロナ禍の避難者受け入れ 小浜の温泉旅館、安全安心を追求

普賢岳噴火災害の避難者が宿泊時に洗濯物を干していた機械室で、当時の様子を説明する町田さん=雲仙市小浜町、旅館山田屋

 新型コロナウイルス感染症の流行が続く中、特別警報級の台風10号が本県に接近した9月7日、雲仙市の温泉旅館の多くが、避難所代わりに利用する市民らで満室になった。「通常時の台風なら宿泊が全てキャンセルになるのに、予約の電話が鳴りやまなかった」。同市の小浜温泉街の旅館山田屋社長、町田康則さん(69)=同市議=は、「旅館が避難先になったのは普賢岳の噴火災害以来。実績を重ね、どんな状況でも安全安心な宿泊を提供する必要がある」と、温泉旅館の新たな存在意義を訴える。

 30年前の1990年11月17日、雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火。大火砕流が発生した翌91年6月3日は、旧南高小浜町議会の定例会会期中だった。当時、議員になりたての町田さんは議場で第一報に接した。「死者が出ているようだ」との情報に議場がどよめいたのを覚えている。翌日以降、島原市役所や旧南高深江町役場、両自治体の避難所などを訪れた。
 「これはひどい」。避難所の体育館を訪れ、思わず声が漏れた。板張りに急きょ敷かれた畳の上に避難者が密集。「プライバシーは全くなし。不安と疲労感に満ちて、重苦しかった」
 一方、旧小浜町では小浜と雲仙の温泉街のにぎわいが一気に消え、6月中旬の時点で両温泉街の宿泊予約キャンセル(11月末までの宿泊)は延べ約16万人に上った。その矢先、県の要請で、両温泉街の旅館は6月19日から10月末まで、避難者受け入れを決定。1人1泊(3食付き)当たり約7千円を県が負担し、延べ約6万7千人が宿泊した。
 「避難者の方たちは火砕流の不安から、いっときでも解放されたと思う」。各旅館に家族単位で1週間程度連泊するローテーションで、山田屋は約20客室全てで受け入れた。
 避難者は最初は少しの荷物しか持っていなかったが、自宅から着替えなどを持ち出し、客室の荷物が増えていった。連泊で特に困ったのが大量の洗濯物。どの旅館も洗濯機が足りず、県から数台ずつ臨時提供を受けた。
 温泉旅館には高温の源泉を使って水を“燗(かん)つけ”して温めて、暖房などに利用する配管設備がある。その配管の機械室は常に高温で乾燥していたため、避難者の衣類がびっしりと干されていた。「いま思えば、温泉旅館ならではの風景だった」と懐かしむ。
 歳月は流れ、今年は新型コロナが流行。噴火災害時と同様に観光客は激減したが、旅館は消毒や検温、客数を絞るなど感染防止策を徹底。国県市の宿泊費補助の助けも借りて、何とかしのいでいる。
 台風10号接近時は、避難所での新型コロナ感染の危険を回避するため、旅館への予約が殺到。「温泉旅館は(公共の避難所とは違い)感染防止の仕切りも必要ない客室でプライバシーが保たれ、食事、寝具もあり、温泉で癒やされる」。避難所に適した環境だと再認識する機会になった。
 町田さんは噴火災害当時の旅館組合、観光協会、市議会などの資料、新聞記事などを保管。新型コロナ禍で、資料をたびたび読み返している。「噴火災害時は低利融資などの経済支援があり、その後、観光誘客キャンペーンが始まった。この流れは、新型コロナ禍での支援策とだいたい同じ」と確認できたという。
 「先が見通せない感染症に直面しても、過去の災害をどう乗り越えたのか知っていれば、先の対応を考える助けになるはず」と、苦境克服への心構えを新たにしている。

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