雲仙・普賢岳噴火30年 守り神への畏敬変わらず 再建の「お普賢さま」に平穏祈る

再建された普賢神社で、ご神体の普賢菩薩を奉仕隊の背中に託す森さん(右)=普賢岳山頂付近

 1990年11月に雲仙・普賢岳が噴煙を上げてから17日で30年。普賢岳の山岳信仰のよりどころ、普賢神社(通称・お普賢さま)は91年に火山灰などに埋もれ姿を消したが、13年後に山頂近くに再建された。島原半島の住民は、沈静化した普賢岳の平穏が続くよう、山の守り神に祈り続けている。

 「お普賢さまが燃えているのでは」-。あの日の早朝、雲仙市の雲仙温泉街にある温泉神社の広瀬和一郎宮司(71)は、周囲から「普賢岳で山火事」との電話を受け、普賢神社の様子を確認するため、一人で普賢岳を登った。午前9時ごろ山頂近くに着くと「社殿から数十メートルの距離の斜面と参道から、(雲仙)地獄のような噴気が上がっていた」と言う。「社殿が無事でほっとした。その後も噴火が続いて社殿が消失するとは想像もしなかった」と当時を振り返る。
 普賢神社は室町時代創建で、温泉神社の奥の院。再建を巡っては、95年に仁田峠の登山道入り口に仮拝殿を建立。その後、有志の「お普賢さま遷宮(せんぐう)を願う実行委員会」が募った寄付で、2004年9月に普賢岳山頂の近くに新しい普賢神社が建立され、ご神体の普賢菩薩(ふげんぼさつ)像も新調された。
 菩薩像が温泉神社に下る秋の例大祭は、島原半島の住民が普賢岳への畏敬・畏怖を身近に感じ、地域の繁栄や安全を願う機会。普賢神社の消失以降は仁田峠の登山道入り口で、菩薩像の代わりのご幣(へい)に神を宿して温泉神社へ移していたが、普賢神社再建により、旧来の形式が復活。総代や地元住民が交代で重さ約15キロの菩薩像を背負い、同登山道入り口から普賢神社までの標高差約250メートルの山道をお下り、お上りするようになった。
 だが、噴火から30年で、神社の総代らが高齢化し、地域の人口も減少。重い菩薩像を運ぶ担い手が減り続けている。今では総代と住民のほか、神社にゆかりのない人たちも「奉仕隊」として加わるようになっている。

雲仙・普賢岳噴火災害で火山灰に埋まった普賢神社=1991年5月、普賢岳山頂付近

 今年9月27日のお下りには、神職や奉仕隊ら計十数人が参加。10年以上前から毎年参加している地元の消防団員、森佑一郎さん(36)は普賢岳が噴火した90年は園児だった。当時活動した消防団の先輩たちはもう現役ではないが、親や先輩たちから当時の様子を聞いて育ってきたという。
 「地元だけで菩薩像を運べなくなったのは残念だが、ゆかりのない人たちに参加してもらい、普賢岳や温泉街を好きになってもらえればいい。山を大切に思い、安全な登山を心掛けるきっかけにもなるはず」。森さんは現状を前向きにとらえながら、お普賢さまへの畏敬の念と、防災への意識を新たにしている。


© 株式会社長崎新聞社