親和銀行史 再編重ね息吹き返す 【連載】十八・親和 合併の行方 新銀行発足編<2>

米内光政が揮毫した「親和」の書(親和銀行提供)

 親和銀行の前身、第九十九国立銀行は1879(明治12)年、平戸藩主から伯爵に転じた松浦詮(あきら)が旧城下に創業した。その2年前に長崎で営業を始めていた第十八国立銀行(後の十八銀行)に行員が見習いに行った逸話(いつわ)もある。九十九番目にできた国立銀行-だったわけではなく、松浦詮が平戸領九十九島の美景を思い、長寿につながるめでたい数字を選んだ、との説がある。
 戦時色が強まる1939(昭和14)年、佐世保銀行と佐世保商業銀行が国策で合併、親和銀行となる。後の2代目頭取で戦後に運輸相や蔵相を歴任した北村徳太郎が、当時の平沼騏一郎内閣のスローガン「一億総親和」から命名。株式会社化した九十九銀行をはじめ、県北や大村、島原など30以上の銀行を吸収してきた経緯から「和」を重んじた。旧知の親和銀行役員から頼まれ、米内光政海軍大臣(後の首相)が揮毫(きごう)した「親和」の書は今なお本店に残っている。
 軍港佐世保の繁栄は空襲と敗戦を経て途切れたが、米軍進駐と朝鮮戦争特需で持ち直した。同行は炭鉱への融資などで復興を後押しした。海軍工廠(しょう)を引き継いだ佐世保船舶工業(SSK、現在の佐世保重工業)が70年代、造船不況で経営危機に陥ると、4代目頭取の坂田重保は「倒産させ、6500人の従業員を路頭に迷わせるのは忍びない」と無担保無保証の20億円融資を宣言。これを呼び水に大手を含む20行の協調融資が実現し、国や財界を挙げての救済劇につながった。
 90年代はバブル崩壊後の不良債権処理に追われ、元頭取らの不正融資事件で株価下落や預金者離れにさらされた。2000年代に入り、再び再編の渦中に。同じ地盤で経営難だった九州銀行からの統合要請を受け入れた。だが九州銀に注入されていた公的資金300億円を返済できず、やがて経営は行き詰まった。元行員の60代男性が当時を振り返る。「入行したときから『親和は親切』が旗印だった。長く取引を続けることを重視し、業績が悪化した企業を見捨てることができなかった」
 そこに手を差し伸べたのが、県境をまたいだ広域展開を目指す、ふくおかフィナンシャルグループ(FFG)だった。07(平成19)年に親和を完全子会社化。傘下の福岡銀行が多くの不良債権を引き受け、売却や事業再生を加速させた。親和は店舗削減や採用抑制など徹底した経営効率化を図り、息を吹き返した。
 「それまでボーナスが何度か減額されていたが、FFGに入って安心して働けるようになり、営業スキルも上げてもらった」(50代男性行員)。反転攻勢の矛先は県南に向かい、十八銀行との競争は一層激しさを増していった。=敬称略

平戸にあった第九十九国立銀行の表門(親和銀行提供)
1939年当時の旧本店(親和銀行提供)

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