『私の戦争』 山田明子さん えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん

 太平洋戦争終結の1カ月くらい前。当時11歳の私は、悪性のマラリアで死にかけていた。
 家族で台南市(台湾)の会社の独身寮に疎開していたが、もうどこにも薬はなかった。母はミミズを煎じたり、海のフナムシがよいと聞けば捕りに行ったりして、私にのませた。モゾモゾとなかなか喉を越さなかったが、結局、何の効果もなかった。
 当時、軍に召集されていた父に私の危篤の知らせが入った。父の上官は、まだ軍にあった特効薬キニーネを父に持たせて帰してくれた。私はこれで、ようやく助かった。父の上官には感謝しているが、これも終戦間際で日本が負けることが分かっていた時だったからこそ、できたことだったろう。運命を感じている。
 余病を制しながら翌年4月に日本に引き揚げ、母の郷里に帰った。闘病中の栄養失調で髪は抜け、青い顔をした私を、地元の子どもたちは遠巻きにして「あいつ肺病病(や)みだ」と煩わしそうにしていた。
 内地はまだ寒く、終戦の年は不作で食糧難だった。配給の芋で食いつなぎ、母は大変だった。戦後75年、被爆者の方々の苦悩も深い。皆で力を合わせて平和を守り抜かなければならない。
(長崎市・無職・86歳)

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