『苦労の連続だった母』 久保正子さん えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん

 終戦は私が6歳の時だった。昭和19年5月に大黒柱の祖父が亡くなり、父は戦地から戻らなかった。祖父は北松吉井村の村会議員や北松の郡議などもしたようだが、家は農家だった。その後の母の苦労は並大抵ではなかったと思う。
 農家は米の供出が義務づけられていた。作業場は遠く、農作業は手作業ばかり。牛で田んぼを耕し、牛の餌も敷地内の草を刈り取ってこなければならない。私たちも少し大きくなると田植えの荷運び、草取り、虫退治などを手伝った。配給物があると、地区15軒分の荷物を往復2時間かけて取りに行った。当番制で、必ず順番が回ってきた。
 後妻だった母は苦労の連続。粗食で化粧もせず、旅行もできなかった。唯一、亡くなる2年くらい前に戦没者遺族会の団体旅行で靖国(やすくに)神社にお参りに行った。本当によかった。苦しい生活の中、私を県立の普通高校に行かせてくれた母に、とても感謝している。
 もし、父が生きて帰っていたら、私たちの生活も変わっていただろう。戦争は嫌だ! このままずっと平和な世界であってほしい! 戦後75年たって当時の大変な苦しみを分かる人たちも少なくなってきた。ひと言でも声を出さねばと思う。
(佐世保市・無職・80歳)

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