『4歳の記憶』 宮田敏子さん えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん

 あの日のことは忘れられません。大村市の祖父母の家から祖父母、母、兄と私の5人で、真夏の空に入道雲を見ました。小学校に通うようになってから、あの雲が原子爆弾のきのこ雲だったと分かりました。
 戦中、父と叔父は出征していたため家におらず、生活は大変だったようです。祖父母の家は高台で、下の方には高射砲台や兵舎、防空壕(ごう)があり、第21海軍航空廠(しょう)や陸軍歩兵第46連隊も見えました。終戦後、米軍が高射砲台などを占拠し、その周辺を通るのが怖かったことを覚えています。
 軍都だった大村は焼夷(しょうい)弾が多く落とされ、多くの女学生が亡くなりました。全国から集められた航空廠の工員たちも戦後は故郷に戻り、宿舎は引き揚げ者の住まいに使われたそうです。
 終戦の翌年には父と叔父も無事に復員し、田畑の仕事を家族で頑張りました。父は寒い吉林省(中国)までいったことなど戦地の話をしてくれました。妹や弟、いとこも生まれ、今も元気で暮らしています。
 今も世界のどこかでさまざまな争いが続いています。原爆で亡くなった方々や今も苦しんでいる人たちが心穏やかに暮らせる日が来るよう、核兵器が無くなることを願うばかりです。
(大村市・無職・79歳)

© 株式会社長崎新聞社