「母の生きた証し知って」 気に掛けてくれた永井博士 えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん

「母が戦中戦後を生きた証しを知ってほしかった」と話す野原さん=長崎市曙町の自宅

 「親子でありながら姉妹のような、一緒に戦争をくぐり抜けた仲間。何でも話してくれた」
 生後半年で被爆した長崎市曙町の野原滿子さん(75)の母、烏山アイ子さん(2014年、87歳で死去)は、戦中戦後の体験を生前詳しく語っていた。
 アイ子さんが働いた県防空学校は「長崎県警察史」によると、昭和15(1940)年に開設。昭和17年に同市立山に新築移転。県内の警防団員や警察、市町村職員らが合宿し、消防や防火、救護の訓練を受けた。
 アイ子さんの話では、同校から戦地に出発する若者たちもいた。夜明け前、わずかな職員で見送った。1人の若者がアイ子さんの長いおさげに触れ、皆がまねるようになった。数日後、若者が乗った船が沈没した、と電報が届くのが悲しかった。
 軍将校のほか長崎医科大教授らが教官を務め、その一人に永井隆博士がいた。アイ子さんと両親はクリスチャンだったことから、永井博士はアイ子さんをかわいがり、結婚についても気に掛けていた。

烏山島太郎さん、アイ子さんが結婚時に撮影した写真(野原滿子さん提供)

 昭和18年末、17歳のアイ子さんは、24歳の島太郎さん(滿子さんの父、故人)と結婚。2人は遠い親戚同士。島太郎さんにとって、アイ子さんは5年越しの初恋の相手だった。昭和20年8月9日の原爆投下時、アイ子さんは滿子さんを背負い、体に障害があった義父の手を引いて、自宅があった稲佐から郊外の三ツ山まで避難。そこで被爆者救護に当たっていた永井博士と再会した。
 島太郎さんは遠洋漁船の乗組員で長期間の航海に出るため、アイ子さんは終戦後、幼い滿子さんと2人で一時、島太郎さんの郷里の五島・嵯峨島で暮らすなど苦労を重ね、最終的にきょうだい7人を育て上げた。
 滿子さんは、「母が戦中戦後を苦労して生きた証しを知ってほしかった。母への感謝の気持ちです」と語った。


© 株式会社長崎新聞社