「空が黄金色に…」 原爆さく裂の瞬間を目撃 脳裏に焼き付く醜い光景

「原爆がさく裂した瞬間の光景が目に焼き付いている」と語る山本さん=佐世保市江上町、サン・レモリハビリ病院

 長崎県東彼川棚町栄町の医師、山本尚司さん(90)は、長崎に原爆が投下された1945年8月9日、長崎市上空で原爆がさく裂する、まさにその瞬間を目撃した。「グツグツとしたピンク色の物体が爆発し、空一面が黄金色に染まった」。75年の歳月を経て、山本さんが初めて語ったその状況は鮮烈で、生々しい。

 山本さんはサン・レモリハビリ病院(佐世保市江上町)の現役の医師。「記憶が鮮明なうちに語り残したい」と、本紙の取材に証言した。
 当時、旧制県立長崎中3年の15歳。両親と弟2人の家族5人で長崎市桜馬場町の長屋に住んでいた。結核性肋膜(ろくまく)炎のため学徒動員を免れ、戦争が終わっていなければ45年秋から、旧海軍経理学校(東京)に入る予定だった。
 「島原半島上空を敵機2機が北上中」。9日朝。自宅でラジオを聴いていると、そんな内容の放送が流れた。「なんやろうか」。外に出て近所の防火用水槽に腰を下ろし、中心部の方角に視線を向けた瞬間、上空にバスケットボールぐらいの大きさの物体が見えた。
 ピンク色で、溶鉱炉で溶けた鉄のようにグツグツと動く異様な物体。刹那、それはごう音を立てて爆発し、放射線状に熱線が飛び散った。瞬く間に空は黄金色に。「ズドンと腹に響く爆発音だった。先に音がして閃光(せんこう)が見えた。『ピカドン』ではなく『ドンピカ』に思えた」
 中心部の方向から爆風で家屋がなぎ倒される音が近づいてきた。すぐに長屋の玄関に駆け込んでうずくまり難を逃れた。爆心地から距離があったため、窓ガラスは割れたものの自宅は倒壊しなかった。家族は全員無事だった。
 再び外に出ると、辺りは真っ暗。爆風で吹き上げられた戸板や畳が燃えながら空中を舞っていた。「悪魔の火だ」と山本さんは思った。
 しばらくすると、東長崎方面へ向かう自宅前の道は負傷者であふれた。顔半分が水膨れになった人、片腕を吹き飛ばされた人、黒焦げに焼かれ、体の前後ろも分からなくなった人…。時間がたつほど、重傷者が増えていった。
 大勢の人が、蛍茶屋の坂を上り切れずに力尽きて倒れ、道路脇に屍(しかばね)が積み重なっていった。それが、山本さんが長年、胸に閉じ込めてきた「8.9」の記憶。山本さんは語る。「原爆がさく裂した瞬間は強烈に脳裏に焼き付いている。あれほど美しくも、醜い光景を見ることは二度とないだろう」

山本さんが取材中に描いた原爆さく裂の瞬間の絵。空全体が黄金色に染まったという

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