被爆作曲家 故 木野普見雄さん 手記に込めた平和への思い、平和宣言で一部引用 長男・隆博さん「父の言葉 改めて感じて」

作曲活動に打ち込む木野さん (撮影年不明、隆博さん提供)

 原爆の犠牲になった子どもたちを思い、被爆地長崎で歌い継がれている合唱曲「あの子」「子らのみ魂(たま)よ」。故・永井隆博士らの作詞に哀愁を帯びたメロディーを付けたのは、原爆に妻子3人を奪われた被爆者で、戦後は平和をテーマにした曲作りに精力的に取り組んだ木野普見雄さん(1907~70年)だ。9日の平和祈念式典で、田上富久市長が読み上げる平和宣言文に木野さんの手記の一部が引用される。「被爆75年と没後50年。何か意味があると思う。父の言葉を改めて感じる場になれば」。長男の隆博さん(70)は亡き父が伝えたかったメッセージに思いをはせている。

 37歳だった。市役所で勤務中に被爆。迫り来る猛火をくい止めるため一帯の消火作業に追われた。日付が変わった10日未明、爆心地から約500メートルの城山町1丁目(当時)にあった自宅付近にたどり着いたが、見慣れた町も、愛する家族も消えていた。
 哀絶、言いようのないむなしさ-。〈妻や子を探そうにもどこをどう探せばよいのか、気は狂もんばかりにあせるのだが、この暗闇をいくら馳(か)けずり廻(まわ)つてみても何になろう〉。56年に書き残した手記で、木野さんは、その時の心情をこう吐露している。
 がれきの下から変わり果てた妻、幼い娘と息子を探し出し、小さな箱に3人の骨を納めて近くの小高い丘に埋葬した。〈湧き流れる涙、つきせぬ涙をどうすることもできない、憤り悲しみ、複雑した感情が心の底から爆発するのだつた〉
 終戦翌年に再婚。隆博さんら2人の子をもうけた。市議会事務局などで働く傍ら、62歳で没するまで音楽の知識を生かして作曲活動に精力的に取り組む。手記にはこうある。〈歌曲を通じて原爆の悲惨苦を憶(おも)い、かつ呪うべき戦争を再び繰り返すことのないよう訴えたいとの願望と、原爆の犠牲となつた七万五千人の尊いみ魂に捧(ささ)げる哀悼のしるしでありたいと思つた〉
 原爆や平和をテーマにした曲は25。中でも、「あの子」と「子らのみ魂よ」は平和祈念式典で市立山里小と市立城山小の児童が毎年交互に合唱する曲としても知られる。

父が残した手記を前に思いをはせる隆博さん=長崎市本尾町の自宅

 〈二度と再びこの地球上に原爆の炸裂を許してはならない、それは長崎の被爆者の悲願であり、人類共通の正義感からする強い叫びでもある〉。手記でそう訴えた木野さんだが、隆博さんは生前の父から直接、体験を聞いたことはない。つらい記憶を心の底にそっとしまい込んでおきたかったのだろうか、とも考える。あの日から75年。被爆者が減少し、継承の大切さを思う。「改めて考えると、聞いとけばよかったなあって。悔いは残りますよね」
 9日の式典。隆博さんは遺族として参列する。今年の山里小の児童が歌う「あの子」、そして平和宣言文に乗って世界に発信される父の手記。「家族を失い、被爆の惨状を目にしたことで父の人生は変わった。父がやってきたことに思いをはせながら、参列したい」。そんな思いで9日を迎える。

 


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