焦げた電車、崩れた鐘楼… 市民目線の原爆の爪痕 被爆者遺族がフィルム寄贈 長崎市、資料提供広く呼び掛け

大橋電停(爆心地から約500メートル)付近の線路上に残る黒焦げになった路面電車(長崎市提供)

 原爆の爪痕が残る長崎の町の様子を捉えた写真36枚(33種類)が、撮影した被爆者の遺族によってこのほど、長崎市に寄贈された。原爆投下から1年以内の撮影とみられる。フィルムが貴重だった当時に一般市民が撮影した写真がこれほどまとまって出てくるのは珍しい。市は「市民目線で被爆の実相を記録した貴重な資料」としている。
 市被爆継承課によると、撮影したのは当時、三菱重工業長崎造船所造船設計部で働いていた田口佐一郎さん=1998年に94歳で死去=。被爆75年に合わせ、市が被爆者の日記や写真、生活用品など被爆資料の収集を強化していることを知った遺族が、「平和のために役立ててほしい」と申し出た。「原爆のことを伝えられる人がいなくなっても、写真なら伝わる」と思ったという。36枚は一部重複があり、種類としては33種類になる。
 田口さんは41歳の時、同造船所で被爆。当日夜、徒歩で疎開先だった西彼時津村(現時津町)にたどり着いた。写真はその後、複数回にわたって、市内を撮り歩いたものとみられる。崩壊した浦上天主堂、焼け焦げた電車、がれきが残る県庁舎(当時)付近-。カメラ愛好家だった田口さんの写真は、原爆の惨禍を克明に捉えている。同課の弦本美菜子さん(30)は「変わり果てた光景に衝撃を受けたのではないか」と話す。
 写真説明には、撮影場所や当時の状況、被爆前の思い出などがつづられている。それによると田口さんは幼少期、浦上地区に住んでいた。崩壊した浦上天主堂の写真には「私が浦上に住みまだ小児のころ、赤れんが造りの天主堂がこつこつと工事中だった」とある。崩落した鐘楼、焼け焦げた石像など、天主堂をさまざまな角度から撮影。思い入れが強い場所だったことがうかがえる。

焼け野原となった浦上駅周辺(爆心地から約1キロ)。向こうに山王神社の鳥居が写っている(長崎市提供)

 大橋町付近の焼け焦げた電車の写真には「1週間たっても10日たっても、どこの方かも分からぬ人の焼死体が横たわり、屍臭を放っていた」。江戸町のがれきが残る県庁舎付近の写真には「通りの人の戦闘帽が懐かしい」と書き残している。
 原爆投下後の長崎の町並みを捉えたものとしては、直後に長崎に入った旧日本軍報道班員や、原爆被害の威力調査を任務とした米国戦略爆撃調査団、新聞社カメラマンが撮影した写真などが知られる。被爆写真の検証作業を続ける長崎平和推進協会写真資料調査部会の松田斉部会長(64)は「戦後の混乱期で食べるのもやっとの時代。米軍でも報道機関でもなく一市民として、古里を何らかの形で記録しようとした強い思いが伝わってくる。被爆前のこともつづった写真説明も貴重」と話す。当時カメラやフィルムは高価で、今回のように数十枚単位の寄贈は珍しいという。
 市は被爆資料の提供を広く呼び掛けている。対象は当時を知る手掛かりとなる日記や写真、書類、衣類、食器などで、ジャンルや年代は問わない。田口さんの写真を含め、集まった資料は今夏、長崎原爆資料館で展示予定。問い合わせは同課(電095.844.3913)。

 


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