「天然痘」出島発の種痘、全国へ普及 「コレラ」ポンペの治療 生存率向上 長崎と感染症の歴史(上)

「アンポン風邪」の感染源となった外国人の姿を描いたとされる石崎融思「チモール人上陸図(1802年、長崎歴史文化博物館蔵)=写真は部分=

 天然痘は「痘瘡(とうそう)」とも呼ばれ、元々日本にはなかった病気だが、奈良時代から恐れられた、死亡率の高い外来のウイルス感染症だった。戦後、世界で予防接種(種痘)の普及が進み、世界保健機関(WHO)が1980年に根絶を宣言した。

▽天然痘
 種痘は江戸後期の日本で、長崎を起点に初めて全国に普及している。1796年、英国人ジェンナーが、ヒトには軽症しか起こさない牛の天然痘ウイルスを接種して予防する「牛痘法」を発明。1823年、長崎の出島オランダ商館に赴任したドイツ人医師シーボルトは、牛痘ワクチンを持って来日したが、接種には失敗した。シーボルトの門人だった長崎の蘭方(らんぽう)医、楢林宗建らが、その後の種痘普及に貢献していく。
 シーボルトが国外追放された「シーボルト事件」から20年後の48年、出島商館医としてドイツ人モーニッケが赴任した。佐賀藩医となっていた宗建は藩からワクチン輸入を命じられ、意を受けたモーニッケがワクチン液を持参していた。ワクチンは長い航海で効力を失っていたが、宗建は液体ではなく、牛痘の接種を受けた患者の「かさぶた」を輸入し、ワクチンを作ることをモーニッケに進言。49年、この手法で国内初の種痘が成功した。
 モーニッケや宗建、モーニッケに師事した医師らが、種痘を受けた子からワクチン液を採取し次の子に接種していく「植え継ぎ」で、長崎や佐賀に種痘を広めた。モーニッケのワクチンは各地で植え継ぎを繰り返すことで、1年ほどで全国に広まったとされる。

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▽コレラ
 1822年の出島オランダ商館長ブロムホフの日記に、長崎でコレラと思われる病気が流行した様子が記されている。嘔吐(おうと)や下痢が続き、2、3日で死亡する細菌感染症コレラは、世界大流行の波及により、この年初めて日本に上陸した。
 再びコレラが長崎で猛威を振るったのは、幕末の58年だった。ペリー来航(53年)を経て、日本は開国。58年に流行したコレラは、同年に長崎に入港した米軍艦ミシシッピー号の乗組員から広まったとされる。長崎で治療と予防に尽力したのが、57年に長崎に赴任していたオランダ海軍軍医ポンペだった。
 ポンペは、長崎に幕府が開設した海軍伝習所の教官として来日。同年から医学校を開き、日本人への講義を始めた。長崎住民の治療にも従事。吐剤(吐き薬)や瀉血(しゃけつ)(血を抜くこと)が中心だった従来の治療ではなく、解熱剤のキニーネや、腸の運動を抑えるモルヒネを使ったコレラ治療を行い、患者の生存率が飛躍的に上がった。
 ポンペはまた、54年から再び国内で流行していた天然痘に対し、種痘の再開にも取り組んだ。61年、日本初の西洋式病院「養生所」と「医学所」を長崎に開設。跡地の長崎市立仁田佐古小敷地内に、今月オープンした「長崎(小島)養生所跡資料館」(現在は休館中)では、ポンペの業績が紹介されている。
 相川忠臣長崎大名誉教授は「シーボルトやモーニッケら長崎の出島商館医により、鎖国下の国内に西洋医学が急速に広まった。長崎で医学講義を始めたポンペは、日本の近代西洋医学教育の祖とされている」と語る。

▽「衛生」思想
 健康の増進、清潔な住居や飲食物といった衛生的な環境は、感染症予防に役立つ。明治新政府で感染症に対抗する「衛生」思想を導入し、保健衛生行政の基礎をつくったのが、旧大村藩出身の長与専斎だった。
 江戸時代、大陸に面した海岸線を有し、長崎にも近い大村藩は、天然痘の侵入を何度も経験した。専斎の祖父で大村藩医の長与俊達は、モーニッケより前に人痘(ヒトの天然痘)による種痘を実施しており、専斎はその教えを受けて育った。
 61年、専斎は長崎でポンペに師事。明治維新後は文部省(当時)に出仕。71年から岩倉具視遣欧使節団に随行し、帰国後の73年に同省医務局長に就任した。75年に医務局が内務省に移管された際、専斎は健康保健全般を「衛生」と称することを決めて衛生局と改称。種痘に関する国内法規を整備し、予防接種の普及に取り組んだほか、医師免許制度の導入なども進めた。

▽スペイン風邪
 しかし、県内では昭和に至るまで、さまざまな感染症の発生が続く。「長崎県伝染病史」(宿輪亮三著)には、終戦までに長崎で発生した天然痘やコレラ、赤痢、腸チフス、結核といった感染症の記録が克明にまとめられている。
 第1次世界大戦中の1918年から20年にかけてのスペイン風邪は、戦争という“国際化”を背景にした悪性インフルエンザのパンデミック(世界的流行)だった。相川氏は「昔は、国家間を多くの人間が行き来する理由といえば、戦争だった」と説明する。
 同書によると、県衛生課(当時)の調査で、18年10月20日~12月末の県内のスペイン風邪発病者は29万2331人、死亡者は2720人。20年の再流行でも、多数の死者が出た。


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