法王と「焼き場に立つ少年」 「戦争がもたらすもの」深い思い 少年は誰? 場所はどこ? 続く調査

ジョー・オダネル氏撮影「焼き場に立つ少年」(「トランクの中の日本」より、坂井貴美子さん提供)

 ローマ法王フランシスコが24日、長崎市を訪れる。核兵器廃絶を訴える法王が強い関心を寄せているのが、原爆投下後の長崎で撮影されたといわれる「焼き場に立つ少年」だ。戦争の悲惨さを強く訴え掛ける傑作として知られるが、被写体や撮影場所は特定されていない。法王来崎で写真が注目を浴びる中、謎を解明しようとする動きが続いている。

 「焼き場に立つ少年」は1945年9月に佐世保に上陸した米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007年)が撮影した。死んだ幼子を背負い火葬場に現れた少年の姿をとらえている。

 法王フランシスコは2013年の就任以来、一貫して核兵器廃絶に積極的な姿勢を見せている。2017年末ごろ、「焼き場に立つ少年」をカードに印刷し、「戦争がもたらすもの」との言葉を付けて広めるように指示した。

 カードははがき大で、カトリック中央協議会(東京)が20万枚(長崎県内2万8千枚)を全国の教会で無料配布。「この少年は、血がにじむほど唇を噛(か)み締(し)めて、やり場のない悲しみをあらわしています」という説明文が付いている。

 法王は24日、爆心地公園(長崎市松山町)で核兵器廃絶に向けたメッセージを発信する。法王の傍らには「焼き場に立つ少年」のパネルが掲示される予定で、写真に対する法王の深い思い入れがうかがえる。

 オダネル氏の記憶によると、撮影場所は「原爆投下後の長崎」。だが、少年の背後にはうっそうとした木立が写り、爆心地の焼け跡の風景とは懸け離れている。

 美術研究者の故吉岡栄二郎氏は「焼き場に立つ少年」の調査を続け、成果をまとめた「『焼き場に立つ少年』は何処へ」(長崎新聞社)を2013年に出版。撮影地は「爆心地から少なくとも3キロ以上離れた光景」と推定した。被写体の少年について、爆心地から10.5キロ離れた長崎市東部の戸石村(当時)に住んでいた「上戸明宏」という人物ではないか、という住民の証言も紹介した。

 長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は、当時通っていた銭座国民学校で顔見知りだった児童が被写体の少年ではないかと考えている。

「少年がどういう生き方をしたのかを知りたい」と話す村岡さん=長崎市つつじが丘5丁目

 1945年8月9日。村岡さんは爆心地から約1.6キロの銭座町2丁目で被爆した。両足と左腕にやけどを負い、現在の長崎市浜平付近にあった砲台跡に避難した。そこに少年も逃げてきていた。

 少年は背中に幼子を背負っていた。村岡さんが声を掛けると「母ちゃんがおらんとさ」と答え、母を捜すために砲台跡を立ち去ったという。村岡さんは以前、「焼き場に立つ少年」をテレビで見た時に「あの少年だ」と直感した。

 昨年1月、少年が特定されていないと知り、記憶をたどりながら調べ始めた。爆心地付近をはじめ、長崎市東部や諫早市にも範囲を広げて卒業名簿を調べたり、聞き取りをしたりしているが、有力な手掛かりは見つかっていない。「もし彼と会えたら、写真が戦争の悲惨さや平和の大切さを訴えていることも伝えたい」と望んでいる。

 長崎県保険医協会の本田孝也会長(63)も今年6月から写真について調査を開始。当時、戸石国民学校に通っていた住民に写真を見せると、複数の人が「見覚えがある」と答えた。卒業名簿や学年名簿に「上戸明宏」の名前はなかったが、彼のきょうだいとみられる人物の名前は載っていた。

焼き場跡周辺を調査する本田会長=8月、長崎市東町

 長崎原爆資料館が所蔵する森医院(長崎市中里町)や中村医院(諫早市)の当時のカルテや死亡診断書も調査。原爆投下の翌日以降、爆心地付近から多くの人が逃げてきていて、1日50人以上の患者を診療し、被爆が原因で死亡した患者も多かったことが判明した。

 8月と10月には、長崎市の矢上地区にあったとされる赤痢など伝染病患者を収容した病院の跡地や、遺体の焼き場跡も現地調査した。本田会長は「写真に写っている標柱など場所を特定できる有力な手掛かりを調べ、当時を知る人たちへの聞き取りも地道に進めたい」と語る。

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