永井隆博士と救護活動を経験 友清さん「先生、ありがとう」 初めて参列した式典で新たな決意を

永井博士(手前左)が1947年に長崎市内で開いた月見会に参加した友清さん(手前右)(市永井隆記念館提供)

 「やっと先生に『ありがとう』と言えた気がする」。長崎市松山町の平和公園で開かれた平和祈念式典に、同市小菅町の元放射線技師、友清史郎さん(92)が初めて参列した。一心に犠牲者を悼むとともに、あの日、命を救ってくれた永井隆博士(1908~51年)に感謝した。
 「史郎ちゃん、飯を食うには早いけど中に入ろう」
 1945年8月9日。18歳の放射線技師見習いだった友清さんは、爆心地から700メートルの長崎医科大付属医院(現長崎大学病院)の敷地内にいた。物理的療法科(現放射線科)の上司だった永井博士から声を掛けられ、病院の中に入った。午前10時50分ごろだった。
 同11時2分、原爆がさく裂した。「病院はコンクリート造り。中にいた人は助かったが、外の人はやられた」。友清さんは顔や手足を負傷したが命に別条はなかった。博士は大けがを負いながらも救護活動の指揮を執り、友清さんは何人もの負傷者を背負って病院裏の畑へ避難させた。周囲の惨状を見て「ひどい爆弾ができた」と戦慄(せんりつ)した。
 原爆投下から3日後、博士らは「第11医療隊」として長崎市三ツ山地区で巡回診療を開始した。友清さんは12人の隊員のうちの1人で、今では数少ない存命者だ。
 実家の松島(西海市)から時々、長崎に米を届けてくれた父春雄さんは稲佐橋で爆死していた。見つけた遺体はうじ虫がわいていた。兄淳三さん(故人)と一緒に、父を荼毘(だび)に付した。
 戦後は長崎市内の病院を渡り歩き、75歳まで放射線技師を務めた。命があるのはあの時、博士が声を掛けてくれたおかげだ。博士は父と親しく、友清さんをかわいがっていた。自分だけが厚遇されて助かったような気がして、死んだ人たちに後ろめたさを感じて生きてきた。しかし、「体が動くうちに」と初めて平和祈念式典に参列しようと決意した。
 式典で黙とうしながら「原爆を忘れてはいけない。戦争は絶対にだめ」と心の中で反すうした。「先生の分までもっと生きなければ」と生きる意欲も芽生えた。終了後は妻比島美(ひとみ)さん(75)の肩に手を掛け、つえを突きながらゆっくりと会場を後にした。

初めて参列した平和祈念式典で、永井博士に感謝し黙とうする友清さん=9日午前11時2分、長崎市、平和公園

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