記者が取材中に発見した 祖母の手帳 焼け野原 歩いた…被爆体験に涙

長男と次男を連れた祖母(中央)。1949年ごろ撮影

 信じられなかった。涙がとめどなくこぼれ落ちた。昨年4月に92歳で亡くなった祖母が被爆体験をつづった手記を、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)で、思いがけなく見つけた。家族にも被爆体験を語りたがらなかった祖母が、1945年8月9日の記憶を後世のために書き残していた。
 私は入社5年目で27歳。今年4月に報道部に異動し、長崎市政の担当となった。原爆関係の取材も多く、祖母の被爆体験を詳しく聞いておけばよかったと後悔した。
 6月中旬。祈念館を訪れた際、職員から「もしかしたら(祖母の手記が)あるかもしれませんよ。探してみたらどうですか」と勧められた。検索機に「中間妙子」と祖母の名前を入れてみると、あった。書棚を探して祖母の体験記を見つけ、手に取った。
 手記は95年に厚生省(現厚生労働省)が実施した被爆者実態調査の際、当時69歳の祖母がしたためていた。見覚えのある筆跡。時を越えて祖母に会えた気がしてうれしかった。手記は短いものだったが、祖母のつらく悲しい体験に触れ、読んでいるうちに声を出して泣いていた。
 
 祖母の手記には、次のようにつづられていた。
 「当時家族は松山町に住んでおりましたが、全員外出しており助かりましたが、父が茂里町の工場でヤケドを負い、長い通院の末治すことができました。私は会社に出社しており、日が暮れるのを待って母の実家長与へ長崎駅より線路の上をずっと歩いて行きましたが、途中喉が渇いてどうしようもなく田んぼの水を手ですくって飲み、家へたどりつきました。今でも松山付近を通ると思い出されてなりません。二度とこんなことはあってはいけないことと思います」
 調べてみると、祖母の自宅は爆心地からわずか約120メートルの場所にあった。もっと詳しく当時の様子を知りたくなり、被爆者健康手帳の情報開示を被爆2世の母に依頼した。母から3世の私が委任を受け、祖母と母の親子関係が分かる戸籍謄本などを市に提出した。約1週間後、祖母が62年に手帳を申請した書類の写しを入手した。
 そこには手記よりも詳しい被爆直後の状況がつづられていた。申請書によると、当時19歳の祖母は県漁業協同組合連合会に勤務しており、約2.5キロ離れた五島町で被爆していた。

 ■思いが交錯

 祖母はあの日、ピカッとした光に驚いた。避難命令に従い夢中で山へ逃げる際、足を負傷した。夜になって線路を伝い、歩いて祖母の母の実家があった長与へ向かった。約1週間後、家族と松山町の自宅に行ったが家は全焼していて、何も残っていなかった。
 祖母の妹、中村美智子さん(86)は長与の家にたどり着くなり泣きだした姉の姿を覚えていた。「何人もの死にかけた人に足を捕まれた。助けてください、水をくださいと言われたけど何もしてあげられなかった」と悔いていたという。着ていたもんぺの裾はかなり汚れていた。
 祖母の自宅があった松山町の平和公園付近を訪れた。現在ではきれいに整備されているが、長崎原爆資料館が所蔵している原爆投下直後の写真を見ると、まさに焼け野原で、ぞっとした。祖母は家も何もないのを見て、悲しかったのか。それとも生きていただけでもよかったと思ったのだろうか。
 被爆当時の勤務先は現在の五島町公園周辺にあったようだ。今は周囲に飲食店やコンビニが並んでいる。祖母は原爆がもたらした惨状を目に焼き付けながら、家族を心配して爆心地付近を歩いたのかと思うと、心が苦しくなった。

 ■日常に感謝 

 私にとっての祖母は、いつも笑顔で優しく接してくれる大好きな「ばあちゃん」だった。部活や勉強で疲れて帰宅した私を心配してくれたり、友達が遊びにくるとご飯を作ってくれたりした。
 しかし、原爆は祖母の心を深く傷つけていた。祖母は7人の子どもを育てた。このうち3人ががんを患い、長男と次男は祖母より先に亡くなった。その際「私が原爆に遭ったせいだ」と自分を責めていた。被爆体験を語らなかった背景には、想像を超えるつらい体験があったのだろう。
 もしあなたの周りに戦争や原爆を経験した人がいれば、寄り添って体験談に耳を傾けてほしい。身近な人が被爆者で既に亡くなったという人は、祈念館に足を運んでみてほしい。あなたの大事な人に何があったのか、私のように少しでも分かるかもしれない。
 あの日、祖母が自宅にいて被爆していれば、私はいま、この世にいなかったに違いない。祖母に心から「ありがとう」と言いたい。平和に暮らせる当たり前の日常に感謝し、健康で元気に生きることが何よりの恩返しになるはずだ。

 ◎体験記収集 11万人超 長崎原爆死没者追悼平和祈念館

 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)は、被爆者の遺影を登録し、被爆体験記など被爆関連資料の収集、公開に取り組んでいる。
 同館は被爆体験を継承し、原爆死没者を追悼するための施設として2003年に開館。現在、被爆体験が記された書籍を含め、11万4888人分の体験記を閲覧できる。
 同館は今年4月、約2万7千人の被爆者健康手帳所持者に、被爆体験記を募る文書を送った。8月7日現在で体験記29件が寄せられ、体験を同館に聞き取ってもらう「執筆補助」に79件、証言映像に5件の申し込みがあった。
 同館は体験記収集への協力を呼びかけている。問い合わせは同館(電095.814.0055)。

原爆投下直後の長崎市松山町付近。祖母の自宅は跡形もなく消えた(米軍撮影、長崎原爆資料館所蔵)

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