二重被爆を撮る 稲塚監督の思い・中 <継承> 長女ら3世代を取材 彊さん家族を「応援したい」

家族証言講話会で、継承への思いを語る山崎さん(中央)と原田さん(左)、稲塚監督=東京都、調布市文化会館たづくり

 「僕は二重被爆者の4世です。きょうは広島、長崎で被爆した曽祖父のことをお話しします」-。来月長崎で上映が始まる新作映画「ヒロシマ ナガサキ 最後の二重被爆者」の冒頭、緊張した様子の少年が紙芝居の上演を前にあいさつする姿が映る。当時小学5年の原田晋之介(13)。曽祖父は、2010年に93歳で亡くなった長崎市の二重被爆者山口彊(つとむ)だ。
■背中追い一歩
 晋之介は18年3月、山口の体験を描いた紙芝居を同市内で初上演した。祖母の山崎年子(71)、母の原田小鈴(44)=いずれも同市=は11年から講話や紙芝居で伝える活動に取り組んでいる。晋之介にとって曽祖父の記憶はおぼろげだが、祖母と母の背中を追って一歩を踏み出した。05年から山口の晩年に密着した映画監督の稲塚秀孝(68)は山口の死後、この3世代の家族を取材。新作で活動の様子などを紹介している。
 20日、東京都調布市で、山崎と原田小鈴による家族証言講話会や新作上映会が開かれた。2人は戦争と原爆に翻弄(ほんろう)された家族史や、迷い悩みながら継承に歩を進めてきた思いを語った。
 1944年、三菱重工業長崎造船所に勤務していた山口は、戦時中の薬品不足が原因で生後6カ月の長男を亡くした。戦後は駐留米軍の通訳や中学教師を経て同造船所に復職。71年、55歳で定年退職した。当時、語り部活動に意欲を示したが、長女の山崎ら家族の反対で断念。しかし2005年、山口の次男捷利ががんのため59歳でこの世を去る。捷利は生後6カ月の時、長崎原爆に遭っていた。
■翻弄された家族
 「被爆の影響しか考えられなかった。いくら年月がたとうとも、原爆は私のもとを去ることはない」。山口は著書で悲痛な思いをつづっている。06年に89歳で語り部を始めたことについては「息子の死をきっかけに、命の続く限り話したいと考えるようになった」。
 山崎にとっても、三つ違いの兄捷利の死は衝撃だった。20日の講話で「ああ、わが家の戦争はまだ終わっていなかったんだ、と初めて思った」と振り返った。
 語り部を始めた山口を長女として支えた山崎だったが10年に山口が死去後、戦争や平和の問題からは距離を置きたいと考えていた。同年夏、平和イベントで山口の追悼が計画され、家族として話を依頼された。引き受けたものの何を話していいか分からなかった。
 本番3日前、考えあぐねた揚げ句「平和をつなぐ」と何度も口に出して言ってみた。すると「命を紡ぐ」という言葉が口を突いた。「そうしたら頭の中に父が浮かんで、せきを切ったように話したいことがたくさん出てきた。戦争や原爆で亡くなった人の犠牲の上に幸せな生活をしている。次世代につながないと」。父を語り継ごうと、迷いを振り切った瞬間だった。
■次世代へつなぐ
 原田は20日の講話で「(被爆3世だから)言葉に重みがないと言われたこともあるが、伝えなければならないことはたくさんある」と述べた。母と依頼を受け、11年から長崎大の平和講座で学生に講話。市が被爆者の近親者らを育成する「家族証言者」として活動し、被爆者の松添博(故人)が山口を描いた紙芝居を使って、県内外の子どもらに語り聞かせている。
 稲塚は「重い使命を引き受けた家族を応援したかった。取材を続けていきたい」と話す。
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