真の教訓 得る材料に 雲仙普賢岳噴火回想録を刊行 元九州大島原地震火山観測所長 太田一也さん 

回想録に託した思いを語る太田一也さん=島原市内の自宅

 雲仙・普賢岳噴火災害当時、九州大島原地震火山観測所(現在の九州大地震火山観測研究センター)の所長として観測の中心的役割を果たした同大名誉教授、太田一也さん(84)=島原市=が、初めての「雲仙普賢岳噴火回想録」を長崎文献社から出版した。地元島原半島出身の火山学者として、未曽有の噴火災害と向き合った日々を赤裸々につづっている。

 5年半にわたった噴火災害への対応を検証し、真の教訓を得る材料にしてほしいと、当時走り書きで残していた膨大なメモなどを基に2011年から執筆を続けていた。
 火山学が専門の太田さんは1967年10月、九大助手として観測所に赴任。その直後から198年ぶりの噴火に向けたマグマの胎動は始まっていた。前兆となる群発地震などが続き、90年11月17日、普賢岳から噴煙が上がった。その後の溶岩ドームの出現、土石流、43人が犠牲となった91年6月3日の大火砕流、防災対策、噴火終息宣言-。噴火前から終息するまでの観測の記録、市民の生命と財産を守るための苦闘の日々、関係者との生々しいやりとり、報道陣の行動などを詳細に記した。
 90年11月17日午前6時半、「けたたましく自宅の電話が鳴り響いた」-。助手からの緊急連絡で始まる198年ぶりの噴火のシーンでは、普賢岳北麓地震観測点の記録計の針がガチャガチャと振り切れ、インクペン書きの記録紙が真っ黒になっている観測所内の様子や関係者との切迫したやりとりが紹介されている。
 大火砕流惨事では、その日の夜、捜索のため被災現場に入ろうとした陸上自衛隊災害派遣隊長の「死は覚悟している」との言葉に、「行くも勇気だが、今ここでとどまるのも勇気だ」と返し、相手の手を強く握り締めて必死で阻止したエピソードも。
 避難勧告地域に立ち入らないよう報道陣に繰り返し訴えたが受け入れてもらえず、結果的に多くの犠牲者を出してしまったことへの後悔についても触れている。行政の防災意識の希薄さ、報道機関への遠慮、観測所長の権威と信頼性の不足、報道陣の過熱取材やゆがんだ使命感などが絡み合い、悲劇が引き起こされたとの見方も示している。
 B5判、434ページ。1万800円。

◎インタビュー/100年先の人に伝えたい
 太田一也さんに回想録に託した思いなどを聞いた。

 -執筆のきっかけは。
 研究者として火山噴火の実態を記すのは義務だと思った。当時の写真や映像、メモなどを基に正しい記録を後世に残したかった。知識人と言われる人たちが雑誌に投稿したり、本を書いたりしているが、間違いも散見され、それが既成事実化されることに危機感を覚えている。実際の現場では数々の裏話、苦労話がある。従事者の名前を教訓とともに残す狙いもある。

 -学者として災害から学んだことは。
 専門家だけでは監視のマンパワーが足りなかった。充実した装備、類いまれな能力、次々交代できる人材がいる自衛隊を活用することが大切だと実感した。彼らはもっと感謝されるべきだ。

 -大火砕流を振り返って。
 私自身、専門家としての権威と信頼性が不足していたため、報道陣に避難勧告を守らせることができず、危険な避難勧告区域で取材が続けられた。結果、消防団員らも警戒で残ることになり死者が出た。行政、住民、報道機関を含めて防災意識の希薄さが根底にあったとの思いは消えず、悔やまれる。

 -報道機関への情報開示について。
 噴火の1週間前、文部省(当時)で「噴火する、と公にしなさい」と助言され、信頼できる新聞記者に話した。その直後に噴火した。リークが遅かったのではと後悔し、その後は報道陣に観測所を開放した。

 -回想録を手にしてみて。
 やっと責任を果たせた。自身の経験、反省点を踏まえ、普賢岳の噴火の経緯を100年、200年先の人に伝えたい。後世の噴火にも役立ててほしい。

 -噴火災害の伝承について。
 伝承、教訓というのであれば危険なところに石碑を建立すべき。言い伝えと違い、刻まれた内容は未来永劫(えいごう)変わることがない。島原には砂防えん堤ができた。危険な場所に入らなければ、溶岩ドームが崩落したとしても退避指示があってからの避難で間に合う。

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