米軍機の「弾丸」見つかる 防風林の松の枝内部

旧日本軍のものとみられる薬きょう=小値賀町離島開発総合センター

 長崎県北松小値賀町前方郷唐見崎地区の防風林で昨秋、戦時中に米軍機が放った弾丸とみられる金属片が松の木の枝の内部から見つかった。この地区では終戦前日の1945年8月14日、米軍機と地上の旧日本軍が交戦した証言が複数残っており、小値賀町教委は金属片の形状や発見場所などから「米軍機の機銃掃射の弾丸の可能性が高い。小値賀で戦争に関する遺物が見つかるのは極めて珍しい」としている。

 唐見崎地区は島の東海岸にある約20世帯、約40人の集落。小値賀町教委などによると、昨年10月2日、町から松くい虫防除のための伐採作業の委託を受けた男性がチェーンソーで松の木の枝を切り分けた際、直径約18センチの枝の中央付近に金属片が埋まっているのを見つけ、小値賀町教委に届けた。

 金属片は直径約1センチの円柱形で、先がとがっている。今も半分が枝の中に埋まった状態で保管しているため長さは不明だが、3、4センチ程度とみられる。小値賀町教委は専門機関への鑑定依頼を検討している。

 小値賀町には戦争の記録が少ないため、小値賀町教委は2017年10月、唐見崎地区の高齢者らを対象に聞き取り調査を実施した。それによると、戦時中、この地区には旧日本海軍とみられる約30~40人が駐留。任務は、木製模造船を海に浮かべて米軍機をおびき寄せ、地上から攻撃することだった。

 弾丸が放たれたとみられる終戦前日は、米軍機4機が日中に飛来。旧日本軍と交戦になり、辺り一帯に機銃掃射した。住民は避難して無事だったが、木製模造船1隻が焼失し、軍人2人が命を落としたという。

 当時を知るこの地区の古川トミヨさん(84)は「小学生だった。慌てて逃げたが、生きた心地がしなかった。今でもあの怖さは忘れない。風化させてはならない出来事」と振り返った。

 昨年6月には、戦時中のものとみられる薬きょう2本(長さ約17センチ、直径約4センチ)が、この地区に住む崎山信好さん(81)から小値賀町教委に寄贈された。親類の女性から譲り受けたという。

 大きさなどから旧日本軍のものとみられ、崎山さんは「米軍機は日本軍の何倍も撃ち返してきたので、恐怖でいっぱいだった。戦後、薬きょうを畑などで拾い、鉄くずを集めている大人に渡すとあめ玉がもらえた」と話した。町教委の平田賢明文化財係長(38)は「弾丸や薬きょうは今後、子どもたちの平和教育に活用したい」としている。

松の木の枝の内部から発見された弾丸。戦時中、米軍機が放ったものとみられる=小値賀町離島開発総合センター
終戦前日の1945年8月14日、米軍機と旧日本軍が交戦した小値賀町前方郷唐見崎地区。奥は野崎島

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