日本国憲法公布72年 近藤益雄「法の下の平等」実践 知的障害児とともに 「風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく」

 10月17日、民家と田畑が混在する長崎県北松佐々町口石免では、黄金色になった稲が収穫のシーズンを迎えていた。その一角に埋もれるようにして「口石児童遊園地」はあった。
 「遊園地」といっても広さは約740平方メートル。観覧車やジェットコースターのような巨大なアトラクションがあるわけではない。むしろ、「児童公園」と呼ぶ方が自然だろう。滑り台付きのジャングルジムなどの遊具、バスケットボールの朽ちたゴールがある程度だ。
 かつてここに知的障害児・者の生活指導・教育の場があった。1953年11月23日、口石小の特殊学級(現在の特別支援学級)の担任だった近藤益雄(えきお)=当時(46)=が、町が所有していた旧農学校の2階建て校舎を借り、「のぎく寮」を開設。それまで間借りしていた民家から、妻えい子=本名ヱイ、当時(43)=と5人の子ども、預かっていた3人の知的障害児と一緒に移り住んだ。

のぎく寮(近藤健さん提供)

 当時、遊園地部分には寮の運動場や畑などがあり、遊園地前に立ち並ぶ3軒の住居部分に寮舎があった。益雄の孫で、現在、そのうちの1軒に暮らす近藤健(62)は小学校6年生まで寮で生活した。遊園地内を歩きながら「果樹園もあってミカンなどを栽培し、豚も2頭くらい飼っていた」などと振り返った。
 益雄は一枚の板に「風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく」と書き、ミカンの木の下に置いていた。当時、「就学猶予・免除」の名の下に就学の機会を奪われていた障害児は少なくない。旧優生保護法で障害者に不妊手術も施していた時代。人権は安易に踏みにじられ、益雄にも「ばかを集めて、もうけたそうな」と心ない言葉が向けられた。しかし、実際には益雄の教員給与や雑誌の原稿料、保護者が払う寮費のほか、篤志家や佐世保の米軍から寄せられた浄財などを、えい子が必死にやりくりしていたという。
 当時、こうした施設は全国的にも少なく、寮生は県内だけでなく県外からも集まった。多い時で三十数人に達し、79年4月の閉園まで延べ百数十人が生活を共にした。だが益雄は閉園からさかのぼること15年、64年5月に自ら命を絶った。57歳だった。
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 2016年、相模原市の知的障害者施設で、入所者19人が殺害された。この夏には、国や自治体による障害者雇用の水増しが発覚。障害者の怒りや悲しみを増幅させる事態が相次いでいる。3日は日本国憲法公布72年。戦後間もない時期に障害者一人一人を大切にし、憲法13条「個人の尊重」や14条「法の下の平等」を体現した近藤益雄の生きざまの一端を紹介する。

 ◎長男の原爆死 「寂しい人々のためこの身生かす」

 「長崎原爆で亡くなった兄耿の(あきら)ために、人の役に立つ仕事をしようと思ったのが、一番の源ではないでしょうか」。近藤益雄が特殊学級(現在の特別支援学級)やのぎく寮で知的障害児の生活指導・教育に力を注いだ理由について、益雄の次女で寮職員だった江口協子(79)は述懐する。
 1945年7月、益雄の長男耿は長崎市の長崎師範学校に進学。8月9日、近くの長崎純心高等女学校裏で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆した。救援列車で諫早市へ運ばれたが、11日朝、長田国民学校で亡くなっていた。17歳だった。
 当時平戸高等女学校の国語教師だった益雄は6月に兵隊に召集され、駐屯していた熊本の村で耿の死を知らされた。益雄の次男で、のちに成人の知的障害者の共同生活施設「なずな寮」を運営する近藤原理=昨年12月、85歳で死去=は著書「のぎくの道」(あすなろ書房、65年)で、益雄が復員後の10月9日に書いた日記の内容を明かしている。「原子爆弾によって耿が傷ついたのが二カ月まえ。明日は死んだ日。胸の痛みは依然として変わらない。悲しみは深く、いとしさは更に強い。この気持ちを、どうすればよいのか。今は、ただ寂しい人々のために、この身を生かそう」

 ■学校運営 

 益雄は復員後、女学校に復帰。平戸の田助中を経て、1948年4月、田平小校長に就任した。この時、校長室で知的障害児に勉強を教えたり、一緒に昼食をとったりしている。
 益雄は女学校以前にも県北や離島の尋常高等小学校に勤めており、その間、最も仲良くなったのは障害児だったという。益雄は雑誌「教育手帖」(日本書籍、50年)で次のように書いている。
 「自分が幼いころから決して人なみ以上の子どもではなかっただけに、そして卒業などで、ごほうびなどというものを、一度もいただくような光栄に浴したことのない子どもだっただけに、また、おとなとなっても、いつも自信のない、つまらない生活をしてきた人間だけに、私は、このおくれた子どもたちの劣等感や卑屈さやあきらめが、たまらなく、いたましいのです」
 そんな子どもたちが成長し、貧困に陥ったりわが子を死なせたりと必ずしも幸せにはなれず、益雄は「何とかしなくては」との思いを募らせていた。
 田平小でも障害児に声を掛けるうちに親しくなり、校長室に集まってきた。時間を見つけて言葉や数を教えると喜んで勉強した。特殊学級設置へと気持ちは傾いたが、現場の教員やPTAに相談すると反対された。
 もともと子どもたちとの触れ合いや授業を大事にしていた益雄は、学校運営という校長の仕事は向いていないと感じていた。さらに、地元の政争に巻き込まれたり、経費使い込みのあらぬうわさを教頭に流されたりした。そこで、教育委員会に校長降任を申し出ると同時に、障害児教育に理解のある人物が校長を務める口石小の教員になることを希望した。

1950年、県内で初めて特殊学級が設置された口石小。当時の校舎は建て替えられ、「みどり組」の教室は既にない。休み時間には子どもたちの元気な声が運動場に響いていた=北松佐々町

 ■みどり組 

 50年春、口石小に県内初の特殊学級が誕生。益雄は担任となり「みどり組」と名付けた。その由来について著書「おくれた子どもの生活指導」(明治図書、55年)で説明している。
 「私はみどりいろがすきです。平和と安らかさと、そしてのびゆくもののあたらしさとを、その色に私は感じます。だから、そういうものに、子どもたちが、やわらかくつつまれ、そしていつもあたらしくのびてゆくようにとのねがいを、私はもったのです」
 益雄は子どもたちが自然とみどり組に集まるのを待った。普通学級の教室を訪れて一緒に遊び、授業をした。仲良くなった障害児がみどり組を訪れるようになり、定員の15人ほどが集まった。
 益雄は毎朝、教室に入ると、一人一人と握手をしながら言葉を交わし、表情を確認した。それぞれの能力に応じて根気強く文字や作文を書かせ、絵を描かせた。そして、褒めて励ました。将来の職業生活も見据え、「なかよくはたらこう」を目標にヤギやウサギを飼って世話をさせた。
 だが、普通学級の児童から「みどり組はばか」とさげすまれ、「勉強ができない子はみどり組にやるよ」と言う教員もいて、子どもたちは悔しい思いをしていた。このため数年後、平凡な「一組」と改め、遠方からの入級希望もあり2クラスになった55年、「一の組」「二の組」とした。

 ◎のぎく寮 「いつになったら休ませてくれるのか」

 近藤益雄は口石小の特殊学級「みどり組」の担任になって4年目の1953年11月23日、北松佐々町所有の古びた旧農学校(2階建て)を借り、知的障害児・者と共同生活をする「のぎく寮」を開設した。

どろ粘土をこねる寮生と益雄(近藤健さん提供、画像を一部加工しています)

 当時、益雄と妻えい子は間借りしていた民家で預かっていた3人の障害児のため、広い家が必要と感じていた。さらに近くの炭鉱マンの子どもたちがみどり組に通っており、閉山に伴う配置換えで引っ越す先に特殊学級がなく、みどり組に残れるよう寮をつくってほしいと頼まれた。益雄も学校の生活指導だけでは不十分と思っていた。
 1958年11月発行の冊子「のぎく寮 5年目のすがた」には、寮の詳細が記されている。「精神薄弱者を保護し教育するささやかな任意施設」とし、義務教育を終えた人への職業指導(農耕)、口石小特殊学級児童への学習指導、全寮生への生活指導を行うと規定。寮舎が110坪、寮地が農地や運動場など500坪、寮生居室が階上4間30畳、階下4間30畳で、学習室、工作室、食堂、炊事場、浴室、家族居室、ブランコ、砂場などを備えていた。寮生名簿には県内、佐賀、福岡、宮崎各県の8歳~24歳の20人が記載されている。
 えい子は朝5時に起きて朝食を準備。益雄が6時に玄関で鐘を鳴らすと、寮生が起床。掃除をして6時半からラジオ体操をする。朝食後、みどり組の児童は益雄と一緒に登校し、他の寮生は飼っている豚などの世話をしたり、畑で農作業をしたり、寮内で絵を描いたりした。
 夕方になると、益雄が男の子と一緒に風呂に入り、女の子は次女協子ら女性職員が洗ってあげた。夕食後、全員で一日の反省会をして午後8時ごろ就寝。益雄は時間を見つけて雑誌や本の原稿を書き、いったん寝てから深夜に読書をすることもあった。
 えい子や協子はトイレの指導に当たった。協子は「トイレを自分一人でできず、漏らす子も数人いた。時間を見ながらトイレに連れて行ったり、夜中に起こして行かせたり。それでも朝起きたらじゅっくり濡(ぬ)れていた」と振り返る。

 ■寮生の死

 「風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく」との決意で寮を始めた益雄にも、好きになれない子はいた。だが、仲良くならないと指導や教育はできない。「神に祈るしかない」と思い、56年にキリスト教に入信した。
 寮創設から8年目、1961年初めの寒い日だった。ある女の子の服に薪(まき)ストーブの火が燃え移り、やけどを負った。近くの病院に入院したが、間もなく亡くなった。協子は「今でも思い出すと心が痛む」と振り返る。だが女の子の両親は寮に理解があり、非難めいたことは言わなかったという。
 益雄は翌62年春に教員を退職し、寮に専念。「のぎく学園」と改称した。日中はみどり組のように授業をした。
 次男原理の著書「のぎくの道」によると、益雄は63年暮れごろから体の不調を訴え、「いつになったら、ゆっくりおれを休ませてくれるのだろうか」などと弱気になっていったという。
 次第に床に伏せるようになり、佐世保の病院に入院。実際は違うのに胃がんを疑い、「死」を口にするようになった。64年5月16日に病院から寮に一時帰宅。翌17日午後、家族や職員、寮生が畑に出はらった際、自室で命を絶った。
 協子は言う。「なんてわがままなことをしてくれたのかと腹が立った。あんな死に方をされると、残された者たちはどんなにつらいか」。一方、「もうエネルギーを使い果たしていたのではないだろうか。教員時代も受け持ちでないのに、貧しい子の家を訪問したりとよく面倒を見ていた。女の子が寮で亡くなったことも心労につながったと思う。理解してくれる人がもう少し周りにいたら…」とおもんぱかる。
 事実、益雄は膨大な量の著作を残しており、それらを読むと、社会の底辺で貧困や差別に苦しむ人々と積極的に関わり、温かい視線を送っていた様がうかがえる。
 益雄が亡くなった1964年の10月、東京オリンピックが開催され、世間は日本人選手の活躍に沸いた。日本は以後、高度経済成長を加速させていった。
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 益雄の死後、のぎく学園は保護者の強い希望で継続が決まった。えい子が協子らとともに切り盛りし、1979年4月、25年5カ月の歴史に幕を下ろした。えい子はその2年後に死去。71歳だった。

=文中敬称略=

 【近藤益雄の略歴】1907年3月19日、銀行員の父益次郎と母マスの長男として佐世保市で生まれる。1913年、父が亡くなり、父の故郷平戸へ母と移り住む。1924年、東京の国学院大高等師範部に進学。1927年、柴山えい子(本名ヱイ)と結婚した。県北や離島の五つの尋常高等小で教員を務め、1941年から平戸高等女学校の国語教師。1945年6月に兵隊に召集され熊本で終戦。1950年春、田平小校長を自ら降任し、口石小の特殊学級「みどり組」の担任になる。1953年11月23日、「のぎく寮」を創設。1964年5月17日、死去。

近藤益雄(近藤健さん提供)

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