ラジオ「長崎は証言する」 被爆者の思い伝え半世紀

 「今朝は村岡正則さんの証言。村岡さんは爆心地から1・6キロの銭座町で家族7人で暮らしていました」-。30日、NBC長崎放送(長崎市上町)のスタジオ。被爆当時の状況を読み上げるキャスターの声が響く。収録中のラジオ番組「長崎は証言する」(NBC長崎放送・毎週土曜午前6時40分)は、1968(昭和43)年11月の放送開始から来月で50年を迎える。原爆や戦争をテーマに被爆者自身が半生を語り、平和の大切さ、命の尊さを肉声でリスナーに伝え続けてきた。
 番組は、記者が被爆者と対面し、被爆体験や戦時下、戦前戦後の暮らしなどを聞き取り、録音。その記者が編集し、キャスターやアナウンサーがナレーションを付ける。時間は1回5分間で、1人の体験談を複数回に分けて放送。10月末で3321回。登場した被爆者は、韓国人や捕虜収容所で被爆した元オランダ人兵士らも含めて968人に上る。
 番組を企画し、初代の担当者を務めたのは長崎放送の記者だった故伊藤明彦さん。原爆を世界史に残る惨事として記録し、人間にどんな被害を及ぼしたかを明らかにするためスタートしたという。
 現在は報道制作部の記者9人が交代制で制作。河野智樹記者(40)は「被爆から73年を経て、当時のことをきちんと覚えている被爆者がなかなか見つからなくなった」と話す。
 87年から2011年まで20年以上にわたり番組を担当した関口達夫さん(68)は、忘れられない被爆者の一人として、キング(旧姓菅井)妙子さんを挙げる。妙子さんは16歳の時、学徒動員により茂里町にあった三菱の兵器工場(爆心地から1・4キロ)で作業中に被爆。顔に大やけどを負い、家族5人は全員爆死した。差別を受けながらも米軍大尉と結婚、出産、そして離婚も経験し渡米。生活苦の中で懸命に働き、一人息子を育て上げた。
 関口さんは「人間らしく生きる基盤を原爆で奪われた被爆者は、かわいそうな人たちと受け取られがちだが、妙子さんのようにたくましく生き抜いた人も多い」と語る。また、これまでの放送を振り返り「口を閉ざす被爆者たちがマスコミに体験を語る下地をつくった」と分析する。
 放送開始当時は、アナログテープに録音していたが、現在はデジタル録音でパソコン編集。制作過程は変わったが、番組の内容は昔のままだ。音声は全て保管しているという。
 真島和博ラジオ本部長(53)は「原爆報道の原点は被爆者の思いを伝えること。番組で取り上げた証言を、将来的にどう活用していくか考えていかなければならない」と課題を述べた。

放送開始当時に使われた録音テープ。秋月辰一郎さん、山口仙二さん、調来助さんらの名前が並ぶ=長崎市、NBC長崎放送

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