冥福祈り続ける 連絡船「珠丸」沈没事故から73年

 終戦直後の1945年10月14日、九州郵船の連絡船「珠丸(たままる)」(800トン、名簿上730人乗船)が壱岐と対馬の間の海上で旧日本海軍が敷設した浮遊機雷に接触し、545人が行方不明になったとされる沈没事故から14日で73年。生還者の一人で乗客だった同市豊玉町廻(まわり)の堀勝實(かつみ)さん(91)は対馬市厳原町の慰霊塔を訪ね「犠牲者の冥福を祈り続けたい」と語った。
 事故に関しては対馬市が、九州郵船対馬支店(厳原町)に「船体触雷沈没報告書」を保管していることを発見。船長は「爆発より約1分乃至(ないし)1分半位の後には完全に沈没」「行方不明者は最早(もはや)生存し居らざるものと認定せらる」と惨状を記していたことが分かった。堀さんは報告書を読み「当時は台風直後で波高数メートルの大しけ。切符を持たずに乗船した客も多く、実際の行方不明者は数百人単位で増えるだろう」と話した。
 報告書は、沈没事故後、斎藤満次郎船長名で九州海運局福岡支局に提出。同局が沈没を認証した書類とともに保管されていた。
 報告書や、厳原港にある「珠丸遭難者慰霊塔」説明板などによると、珠丸は戦時中、博多-対馬-釜山間を結ぶ連絡船として米軍の攻撃をかいくぐり、無傷で運航した。沈没した14日は連合軍の航行差し止めが解かれ、戦後初めて対馬-博多間で運航した日だった。
 珠丸は午前6時過ぎ厳原を出港。「機雷等の浮流することを想像して見張(みはり)も特に厳重に配置注意せしめ航行」(報告書で斎藤船長)していたが、午前9時ごろ、壱岐の勝本港沖で触雷爆発。左舷側から傾き始め、直後、船体後部から沈没した。生存者は通りがかった機帆船などが救助した。
 17歳で海軍志願兵だった堀さんは復員後、福岡県内の知人を訪ねるため前夜から改札を受けずに乗船。船底の3等客室切符を持っていたが、14日早朝、船外で改札を受けると客室がいっぱいになっていたため煙突近くの外部甲板に移った。爆発時は寝ていたが、甲板を突き抜けてきた水柱の衝撃で海に投げ飛ばされた。布団袋などにしがみついて海を約6時間半漂流した後に救助された。
 堀さんは73年目となる14日朝、妻の房江さん(88)、孫で僧侶の直人さん(35)らとともに慰霊塔を訪れ法要。「朝鮮半島から引き揚げてきた人や復員したばかりの知人もいたが、その後、知人とは会えていない。記録されてない人も含め犠牲者の冥福を祈り続けたい」と話した。
 対馬市は報告書について「忘れてはならない戦後の戦争被害を伝える史料として貴重」として、2020年開館予定の「対馬博物館(仮称)」に写しを展示する方針。

対馬―博多間を運航していた珠丸の古写真(九州郵船対馬支店所蔵)
生還した堀勝實さん
珠丸遭難者慰霊塔の前で法要し、犠牲者を弔う堀さん(左)と妻の房江さん、孫で僧侶の直人さん=対馬市厳原町、厳原港

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