天を見つめ 静かな祈り 独り生き残って泣いた

 あの日。母子家庭で育った山口カズ子さん(90)=長崎県西彼長与町高田郷=は、一発の原爆で母と妹2人の家族全員を失った。

 原爆投下から73年目の9日午前、山口さんは母校の純心中・純心女子高(長崎市文教町)であった原爆殉難者慰霊祭に今年も参列。在りし日の母と妹2人の姿を思い浮かべながら、静かに祈りをささげた。

 山口さんは1944年に当時の純心高等女学校を卒業。女子挺身(ていしん)隊として爆心地から1・1キロの三菱兵器製作所大橋工場で働いていた。

 父親は6歳のときに肺結核で他界。母子家庭で育ち、当時は44歳の母ヱイさんと、15歳の園子さん、12歳のテルヱさんの妹2人と暮らしていた。

 母は和裁で生活を支えた。家計のやりくりは大変だったはずだが、子どもたちには苦労の影を見せなかった。ただ夜中に目が覚め、母が裁縫をしている姿を見た時「子ども心に大変だなと思った」と言う。貧しかった上に戦時中のこと。家族の楽しい思い出はない。住まいは爆心地からわずか数十メートルの長崎市松山町にあった。

 1945年8月9日。山口さんはいつも通りに出勤した。朝から空襲警報が鳴ったため避難。工場へ戻り仕事に取り掛かろうとした時、「窓の外で白い光が走った」。

 気が付くと、天井から落ちてきた材木に覆われ目の前は真っ暗だった。なんとか這(は)い出し外に出た。工場から逃げだす人々は爆風で髪は逆立ち、衣服はぼろぼろ。頭から血を吹き出しながら人が走っていた。

 純心高女の生徒向けに用意された諫早の保養所に入ることになったが、両腕のやけどがひどく、うみがだらだらと流れていたため、しばらく寝たきりだった。包帯を交換すると激痛が走る。顔をやけどし、唇が腫れ上がっていた。しゃべることもできず、食事は米を一粒一粒口に入れてもらった。

 部屋は6畳一間で3人ずつ入っていた。同じ部屋にいた子は無傷だったが体に紫の斑点が出て亡くなった。死者が出たことを知らせる聖歌が保養所内から何度も耳に入ってきた。

 その後、長崎市川平町に住む親戚の家へ移った。自宅があった爆心直下の松山町では、誰も助かった人はいないと聞いた。家族も「だめだろう」と内心諦めていた。

 秋ごろ、ようやく歩けるようになった時に、母と妹たちの葬式が既に済んでいたことを初めて知らされた。「天涯孤独の身になった」と実感した。目の前の山に向かって一人泣いた。

 家族のうち骨が残っているのは三女だけだった。自宅敷地に落ちていた骨を妹のものだろうと、誰かが拾ってくれていた。次女と母はそれぞれ自宅近くの工場で働いていたので、恐らくその辺りで被爆したのだと思う。「腕をやけどしていたが、足は動いたのだから、母を探すべきだった」と悔やんでいる。

 山口さんは今も思う。

 「原爆が投下されなかったら家族はみんな無事だったかもしれない。戦争をしないためなら、どんな犠牲を払ってもいい」

 母や妹らの冥福を、そして世界の平和を祈らずにいられない。

亡き家族を思い校墓の前で手を合わせる山口さん=長崎市、純心女子高

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