水上特攻艇「震洋」の格納壕確認 長崎・牧島の基地跡で計11 地元の郷土史勉強会「平和学習で活用を」

 長崎市東長崎地区の歴史研究グループ「郷土史勉強会」が、太平洋戦争末期に同市牧島町の海岸に配備された旧日本海軍の水上特攻艇「震洋」の基地跡で、計11の格納壕(ごう)が現存していることを確認した。戦跡の存在は知られていたが、詳細は不明だったため、各種資料や住民の証言などを基に現地調査した。同会世話人の田上春幸さん(67)は「地元でも知る人が少なくなった貴重な戦争遺構。平和学習に活用してほしい」と話している。
 旧海軍は戦況が悪化していた戦争末期、本土防衛に備え、三菱長崎造船所などで大量生産した震洋の基地を全国各地に設置。県内でも牧島町や島原半島などに特攻部隊が置かれた。震洋は全長6メートル前後のベニヤ板製モーターボート(1、2人乗り)。トラック用のエンジンを搭載し、前部に250~300キログラムの爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻兵器だった。フィリピンや沖縄などの激戦地では2500人以上の若者たちが命を落としたという。
 郷土史勉強会によると、東彼川棚町の「海軍川棚臨時魚雷艇訓練所」で訓練を受けた搭乗員ら約150人の部隊が終戦間際、25隻の震洋とともに牧島町に着任し、島内3地区に分散配置された。このうち島北部の海岸線で、震洋を格納した11の横穴式豪が現存していることを確認。コンクリート製の水槽も残っていた。出入り口の大きさは縦横いずれも数メートル。周辺は草木で覆われ、一部は崩落していた。残る二つの地区の豪はほとんどが埋め戻されていたという。
 部隊着任から間もなく終戦を迎えたが、この間の地域の様子は記録に残されている。「戸石小学校百年史」(同刊行委員会発行)は当時の訓練について「緑色のモーターボートが、まっ白い波をけたてて、走る姿はいさましいものでした」などと紹介。「ルイズが正子であった頃」(ルイズ・ルピカール著、未知谷発行)には「風呂以外の日にも人懐っこい特攻隊の一人がおりおり訪ねて来るようになる」などとあり、特攻隊員と地域住民の間に交流があったことがうかがえる。
 郷土史勉強会で講師を務める郷土史家の織田武人さん(79)は「若い世代には原爆だけでなく、地元の戦争の歴史にも目を向けてほしい」と語った。

郷土史勉強会が確認した水上特攻艇「震洋」の格納壕=長崎市牧島町
水上特攻艇「震洋」の実物大復元模型=2016年3月、川棚町郷土資料館

© 株式会社長崎新聞社