【第35回】自ら情報取りに行く 夫婦漫才師が「兼業記者」 原発事故の報道契機

東京電力の記者会見で質問するおしどりマコさん(右)とおしどりケンさん。「舞台の帰りに衣装のまま、かつらを外しながら駆けつけたこともあった。毎日だった会見は今は週2日。記者も減った」とマコさん=7月3日、東京都千代田区(撮影・堀誠)

 8月22日午後、東京・上野の鈴本演芸場。おしどりマコさんのアコーディオンに合わせ、おしどりケンさんが針金で作ったトランプ米大統領や金正恩朝鮮労働党委員長の顔などを披露すると、満員の客席が沸く。針金の作品は、欲しいと手を挙げた客に進呈された。
 「貧乏でお金がない」「おいしい仕事もない」「でも針金代は高い」と掛け合い、なるようになるという意味の「ケ・セラ・セラ」をマコさんが弾きながら、2人は次の落語家に舞台を譲った。
 

 

 ▽東電会見へ

 吉本興業に所属する夫婦漫才の2人は大阪で活躍し、もっと売れたいと考え、2010年の暮れに東京へ。3カ月余りたった11年3月、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に遭う。
 子どもが集まる春休みのイベントに連日出演する予定があり、マコさんは放射性物質の影響が心配だった。1日に何度も開かれていた東電の記者会見をインターネットで見て、書き起こしてホームページ(HP)にアップした。「みんな、気を付けて生活した方がいいと言いたかったから」
 会見では、オレンジの上着の小柄な男性が質問すると、東電の担当者は「持ち帰って検討する」と言って答えず、そのうち男性が何度手を挙げても、当ててもらえなくなった。1~3号機が次々に炉心溶融(メルトダウン)しても「炉心損傷」と言い張っていた頃だ。
 2人は「オレンジ、頑張れ」という気持ちになった。原発から立ち上る白い煙がすごく気になっていたが、誰も会見で聞いてくれない。会見に行ってみようと考えた。
 翌4月19日、初めての会見場。マコさんが白い煙について尋ねると、担当者は「(放射性物質は)完全にゼロというわけではなく、含まれていると思う」。その後、白煙には、大量の放射性物質が含まれていたことが明らかになる。
 

 ▽内部告発も次々

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 マコさんの故郷は神戸。阪神大震災では、同級生を亡くし、父を失って「死にたい」と言う友人には何と声を掛ければいいかも分からなかった。
 そんなとき、ソウル・フラワー・ユニオンというバンドが電気を使わず、ちんどん屋のように、アコーディオンや太鼓などで演奏するのを見た。「これだ。元気に生きよう、人を励まそう」と考え、鳥取大医学部をやめて、ちんどん屋に弟子入りした。これが芸人への一歩となった。
 大阪出身のケンさんは芸人を目指すも、しゃべりが不得意なので、パントマイムをやっていた。
 2人は01年に仕事先で出会い、結婚と同時にコンビで活動。順調だった仕事は原発事故の取材を始めてから、目に見えて減ったが、喜味こいしさんから生前教わった「国のためにしゃべるな。目の前の客のためにしゃべりなさい」という言葉をかみしめている。
 日隅さんは12年6月に逝った。49歳。同年4月刊の著書「『主権者』は誰か」では、憲法に定められたように、私たちが主権者として振る舞うための五つの条件を挙げている。その1番目は「自分たちのことについて判断するため、必要な情報を得られること」だった。(共同=竹田昌弘)

「同志は倒れたが、最後の最後まで闘った。主権者は誰だと訴え続けた。見事だった」。東京都内で開かれた「日隅一雄さんを偲(しの)ぶ会」で、遺影に向かって話し掛ける作家の沢地久枝さん=2012年7月22日(小峰晃さん提供)

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