“怪童”の全国デビューは衝撃的だった。
岩手・花巻東の1年生スラッガー、佐々木麟太郎が、11月に行われた明治神宮大会の高校の部に「3番・一塁手」で出場、2本塁打を記録して周囲の度肝を抜いた。
初戦の国学院久我山(東京)戦で高校通算48号を放つと、準決勝の広陵(広島)戦でも49号。試合は敗れたが、桁外れのパワーを目の当たりにしたファンを驚かせた。
同大会は各地方の秋季大会優勝校が集まるレベルの高い大会で、佐々木は3試合に出場して10打数6安打9打点をマークした。
佐々木はその後、今春の選抜大会優勝の東海大相模(神奈川)との練習試合で50本目を記録している。
早稲田実業時代に、歴代最多とされる高校通算111本塁打を放った清宮幸太郎(日本ハム)でも高校1年時は22本、花巻東の先輩である大谷翔平(エンゼルス)は高校通算で56本だから、いかに突出した数字かが分かる。
このペースで行けば卒業時には150本塁打に到達する計算になる。
身長183センチ、体重117キロとこちらも高校1年とは思えない巨体。打撃練習の映像を見ると、常に場外弾を狙っているようなアッパースイングから規格外の打球を生む。
花巻東のグラウンド右翼後方には関係者らが車をとめるスペースがあるが、現在は使用禁止になっているという。佐々木の打球が軽々とネットを越えて車を直撃する可能性があるからだ。
父は同校の佐々木洋監督。「麟太郎」の名前は社会科教諭であり、歴史好きの父が勝海舟の幼名から命名した。
幕末の動乱期に新時代への道筋をつけた英雄のスケールの大きさを野球にとの思いが込められている。
近年、岩手県が好選手を輩出している。大谷の先輩である菊池雄星(現在マリナーズからFA宣言中)も花巻東OBで、佐々木朗希(現ロッテ)は大船渡高出身だ。
かつては野球不毛の地と言われた岩手になぜ怪物が次々と誕生するのか。たぐっていくと、優秀な指導者の存在へとたどり着く。
佐々木監督の指導法は「型にはめない」「最初から不可能はない」など、選手の個性を最大限に生かし、時に人間教育にまで及ぶ。
大谷で有名になった「目標シート」は、将来の自分の目標をどこに置いて、そのためには何を実践していくかを細部にわたって書き記すものだ。
大谷は「運」と言う項目を設け、具体的にゴミ拾いを実践する、審判に敬意を払うなどと書き込み、メジャーリーグのスターとなった今でもそれを守っている。
さらに忘れてならないもう一人のキーマンがいる。佐々木が「尊敬する人」として挙げるの地元の中学硬式野球チーム「金ケ崎リトルシニア」の大谷徹監督。大谷翔平の父である。
彼もまた熱心な指導だけではなく、一生懸命走り、一生懸命声を出し、一生懸命キャッチボールをするといったスポーツの原点を説く。
27歳の大谷が今でも野球少年のような輝きを放つのは父であり、佐々木監督の教えが生かされているからだ。佐々木の花巻東進学もまた必然だった。
佐々木には、単に本塁打数だけでない素質の確かさがある。打撃内容で言えば、明治神宮大会の初戦で放った48号は第1打席の初球を仕留めたもの。いきなり期待に応える勝負強さと「華」がある。
準決勝の49号も3点ビハインドの8回二死から一時同点に追いつく起死回生弾だった。運以上の何かを持っていなければ、1年生でこれだけの働きはなかなかできない。
さらに付け加えると、10月の東北大会中に左すねを疲労骨折していた。けがに強いことも一流選手への必要条件である。
野望もある。現在は主に一塁を守っているが、その先には投手と野手の「二刀流」も視野に入れている。中学時代は主に投手と三塁をプレーした。
「高校で上を目指したりチームのことを考えると、自分が一塁一本では駄目だし、複数ポジションを守りたい思いがある。投手にもまた挑戦したい」。ストレートの球速は140キロ程度だが、大谷と同じの道を歩むつもりだ。
東北大会の優勝で、来春の選抜大会出場が確実視される。憧れの甲子園球場でどんな打撃を見せてくれるのか。楽しみは膨らむばかりだ。
荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル
スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。