『睦家四姉妹図』藤谷治著 「寄り添い欲」を温かく満たす一冊

 1月17日や、3月11日が近づくと、SNSには「あの日、あの時、自分はどこでどうしていたか」をつづる書き込みが増えてくる。明け方のワンルームマンションで、テレビを前に言葉を失っていた者。帰宅困難者であふれ返る道を、夜通し黙々と歩いていた者。その風景は人の数だけあって、見たものも感じ方もそれぞれまったく異なり、けれどそれを互いに交わし合うことで、和らぐのは実は「寂しさ」だったりするのだ。自分とこの人たちは、同じ世界で、ともに生きている。そんなささやかな実感によって。

 物語の舞台は、睦(むつ)さん一家のお正月である。両親と四姉妹からなる睦家の、1988年から2020年までの紆余曲折が、時系列順に描かれる。ものの考え方がどことなく硬くて、どうも妻帯者とばかり縁のありがちな長女の貞子。男を見る目がなさすぎて、家族を持ってからもどんどん夫に失望していく次女の夏子。周囲を極めて客観的に眺めていて、ある場面では隠し持っていた才能を大いに開花させる三女の陽子。みんなを惹きつける美貌の持ち主で、けれどその特権に安住する気などさらさらない四女の恵美里。彼女たちの日々と、平成の歴史が、見事なまでに並走する。

 主に語られるのは、日常風景だ。母と娘のいざこざだったり、彼氏を家族に紹介するときの緊張感だったり、夫が家族に馴染んでいくグラデーションだったり。そこに、みんなが知っている風景が絡まる。バブル期のディスコ文化。阪神淡路大震災。地下鉄サリン事件。同時多発テロ。ただし、この物語で実に細やかに重点が置かれているのは「そのとき起きていたこと」よりも「それらの風景に登場人物が感じたこと」だったりする。あわてたり、うろたえたり、苛立ったり、愛したり。その様が、かつて読み手自身が一喜一憂した記憶と重なって、まるでこれまで長年にわたって、登場人物たちと寄り添いながら生きてきたかのような錯覚を覚える。

 そしてもちろん、四姉妹も「親たちの老い」に直面する。その時点ではすでに、自分の時間すべてを親に捧げることのできない人生を、子どもたちは生きている。その無念に、老いた親を持つ者のひとりとして、心臓を絞りあげられる思いだ。それでも「家族」は続いていく。「人生」も同様である。泣いても笑っても、ただただ淡々と、それらは続いていってくれる。そのことに救われながら、私たちも、今日を明日を生きるのだ。

(筑摩書房 1700円+税)=小川志津子

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