麥田俊一の偏愛的モード私観 第23話「ジェニーファックス」

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 電線を吹き鳴らす木枯らしの響き俄に凄まじく、往来するトラックのエンジン音の如何にも師走らしく耳立つ日の暮れ。数冊の文庫本を購入して家路を急ぐ。年内に清書しておくつもりでいる。(この稿は2020年12月末に書かれた)。最低限のエチケットこそ弁えてはいるが、旧型の私には、新たな日常がいまだにピンと来ないまま、残りももう僅か。いやはや今年もファッションの現場は特段面白かった。パンデミックがもたらした変化が大きかっただけに、今年は一層興味深かった。幾人かのデザイナーの積極的な気持ちに大いに感化された。ただ変化に順応するのではなく、流れに抗う気骨と云うか、精神主義は少しく苦手な私が云うと重みがないが、彼等の強い気持ちに大いに鼓舞された。

 ファッションを題材に書いていて、番度感じることがある。自分は、記録の冷静な観察型、分析型と云うより、入り込み型、情緒増幅型であると。こうした気質は他の方々とは大きく異なるところだろう。その一つの表れかも知れないが、以前、「ジェニーファックス」の服が「可愛い」と評されていたことに私は屡々異を唱えたことがある。フリルやラッフルを塗した服は確かに可愛く映る。私感とハッキリ断った上で云うべきだろうが、可愛いだけで収めてしまうのは、なんとなく表層的に過ぎるし、都合よく附会しているように思った。昔の話で恐縮だが、その時、私は「ジェニーファックス」の服の特異性を悟った。あれは2015年春夏シーズンのショーだった。

 その時に感じた要点だけ陳べると、このブランドの服は、モデルが着るよりも、普通の十代の女性が着ている方が一際引き立って見える。そもそも衣装ではないのだから、舞台映えのしない服と云ったらグレハマだが、ファッションショーのキャットウオークよりも、街中が一等似合う服なのだ。但し、私が強く惹かれたのはそれだけの理由ではない。寧ろ、普通に可愛いだけであれば他にもたくさん服はある。大袈裟かも知れないが、その時のショーに居合わせた私は、なんとも云えぬ恍惚と悲哀とを感じた。ああ、この甘くして柔らかく、痛々しい迄に暗鬱な感じは何だろう。そして、忽ちにして冷淡にもなる運命の手に弄ばれてみたい、と云う止み難い空想に駆られた。勿論、そこに清々しさは微塵もなかったが、空想の翼の広がるだけに、秋の青空(ショーは10月中旬に発表された)が普段よりも青く広く眼に映じた程だった。演出を含めたショー空間で見せられた「ジェニーファックス」の服は、暗くて怖かった。底知れぬ暗部がデザインに投影されていることもあった。残酷性、諦観、嫉妬...。このブランドは、デザイナーのシュエ・ジェンファン(東京を拠点に活動する台湾出身の女性)本人の、生身の人間の情感に密接に根差していて(時にはネガティブな心象風景や幼い頃の記憶)、そんな彼女のローアングルな視点が私の内なる琴線を掻き鳴らした。だから私は、可愛いと云う見方が、如何に一知半解なものかを声を大にして伝えたかったのである。しかし、服は生き物である。そんな負のオーラを勇ましく蹴倒しながら(勿論、それさえ感じないこともあるのだろう)、ものの見事に自分流に着こなしている「ジェニーファックス」マニアの群れを眼にする度に、ああ、服は生き物なのだと思う。いつだったかのショーの後に、彼女はこう云っていた。「ドン底のテンションにあった時にデザインしたから、今回は限りなくハッピーになれるような服にしてみました」。

 あまり暗いの、怖いの、と云うとマニアの方々の顰蹙を買いそうだから云い抜けをしておく。超自然や狂気のカウンターとしての可愛さとか、ネガティブをポジティブに転換するファンタジーとか、少女の繊細さや脆さとか、彼女に特有なワンダーランド的な原風景より抉り取ったダークサイドな物語は、最近は少しく影を潜めている。その代わりに、可愛らしくもあり、エロチックでもあり、飛び切りガーリーな少女像をドシドシ更新している。未熟と成熟、正常と狂気の混沌の中で炙り出される可愛い服は、丁度、熟れた果実が、たとい充分に熟していなくても、誰にも揺すぶられることなく自然と枝から落ちるような、そんな稀有な成熟具合と云ったらいいのか。これも私の独断だけれども。

 最新作(2021年春夏コレクション)は、時節柄ショーを休止し、その代替として一風変わったプレゼンテーションで見せた。VR映像にてモデルに着せた凡てのルックを発表した。これが頗る付きに面白かった。尾籠な表現だが、そのスタイルは、ベロベロ、デレデレとして生々しく色っぽかった。加えて、普段のショーでは絶対にあり得ない距離までモデルが接近する大迫力。見ている私は、撫で回すような眼で彼女たちの姿を左見右見(とみこうみ)して飽きなかった。VRと云う虚構。ゴーグルを通して、私は虚妄と現実の間にいた、と云ってもいい。そのどちらにいるともつかず、傍目からは、両者の境界線をあわやの際に失いかねまじき千鳥足でよろめいているように見えたかも知れない。が、歩行速度が速くては見えない何かが見えた。生きた現実生活よりも、もそっと生々しい虚構の現実を一瞬でも眼の当たりにすることが出来たのである。

 服のことはまだ何も語ってはいない。例えば、エプロンドレス、テーブルクロスに着想したドレス、ランジェリードレス、典型的なオフィスガールや女学生の制服、少女の可憐なツーピース。ルーズソックスの代わりではないだろうが、淡い色のパンティーを重ねて足元にアクセントを付けたエグさも健在。しかし、これらは明らかに新たな日常にフィットしたスタイルではない。それは確信犯的に違えているのだ。ジャケットは解体され、その下よりフリルのレイヤーが飛び出している。1980年代に流行ったパワーショルダー(広く伸びる大きな肩)はパフスリーブを味方に付けて歪に形を変え、過去(古い因習とか規範とか)を解き放つような活力に満ちている。こうした力が前に進もうとする強い思いを刺戟するのだ(そう、私はエロさだけに見惚れていただけではない)。新宿の中華料理店、隨園別館の、円卓を構えた店内が今回の会場となった。ショーが終わりに近付くと映像が切り替わり、モデルたちが私(正確には我々だが)の眼前の食卓を囲み、料理に舌鼓を打つ場面が終幕。未練がましくゴーグルを外した私(正確には我々だが)の前に割包(クワパオ。豚の角煮を挟んだ台湾式のハンバーガー)が配膳されていた。さすがにシュエ・ジェンファンは点睛も忘れなかったのである。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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