麥田俊一の偏愛的モード私観 第22話「ハトラ」

「ハトラ」2021年春夏コレクション(PHOTO:TOKI)

 この週末はまた突然に、鏡のおもてを拭ったようなこの青空。住み古した陋居の隅々まで俄に暖かい陽光が差し込むように思われて(10月下旬だと云うのに)、唯わけもなく誘われるような心地して、見飽きた野山の長閑さよりも、自動車の騒音飛び交う街中の恋しさ。ふらふらと大通りを歩いてみたくてサンダルを突っ掛けたものの、鎌倉街道を外れた足は独りでに近所の河へと向かっていた。

 橋の欄干に凭れカップ酒を舐めながら、太々しく肥えた鯉の、ぷりぷりと身体をよじらせながら悠然と泳ぐ姿を眼で追っている。越冬に訪れる鴨の姿はまだない。なにやら川面に影のように蠢く存在が気になってもいた。眼を眇めて見ると鯉の幼魚の大群である。数百尾以上の幼魚が一様に同じ方向を目指して薄黒い塊を作っている(皆が皆、寸分違わぬ同じ姿勢で水中に揺らめく大きな塊となっていて、それが薄気味の悪い陰翳に映るのだ)。やがて微動だにしなかった川面に一瞬閃光が走った。群の中の一尾が川面を割って、腹を空に向けて跳ね返ったのである。暫くして一跳ね。そしてまた水飛沫。同じ幼魚の仕業かどうかは判然としない。週末の昼下がりの、なんのことはない景色に胸の空く思いがした。自室に戻った今、来月書くつもりの稿を書いているのはその一幕にあやかっているからである。

 跳ねっ返り、と云うのは、的を射た形容ではないかな。本人は眉根を顰めると思うから私感とハッキリ断った上で云うのだが、「ハトラ」のデザイナーの長見佳祐は一種の天の邪鬼的な気質の持ち主である。勿論、世を拗ねた下衆な私なぞとは違い、彼の場合はポジティブなつむじまがりなのだ。番度、彼の作る服を見て、或いは彼の言葉を取材して、そう感じるのだ。人間(ここでは服を作る人を云う)が自分の性格的なものを曝け出す瞬間が、私のノオトのシャッターを切る、所謂、決定的瞬間である(他処で「モードノオト」なる短期集中連載を続けている)。水飛沫をバシャッと跳ね上げる躍動感こそないものの、長見は胸の底に汚れのない泉を持っている。ちと褒め過ぎだろうか。同じ指向を持つ身としては、彼のピュアな感覚が羨ましい。私は私で、たまたま外気に当たってみたら雲を踏んでいるような思いもしたが(酔いのせいだけではない)、さすがに胸の奥に生き返った泉を覚えたようである。

 「ハトラ」の服を知ったのは、長見がブランドを開始した最初か2回目のシーズンだった。ルックを撮影したデータを見たのが最初で、その後に出向いた展示会で実際の服を見た。彼は「部屋」とか「居心地のいい服」をモットーに、当今のパンデミックを予想していたわけではないだろうが、「ポータブルな自室」を体現するようなフーディーを中心としたユニセックスラインを標榜してブランドを開始した。簡単に経歴に触れると、長見は1987年広島県生まれ。2006年に渡仏。2009年エスモードパリ・マスターコースを首席にて卒業。2010年に帰国。その後直ぐに「ハトラ」を立ち上げた。フーディーと云ったが、要はパーカである。それも開始当初は殆どパーカだけの品揃えだったから、あぁこれも、作り手の顔が見え難い「衣料品」の類いなのだろうと思ったが、実際に現物を見ると、一癖も二癖もあることが判った。作り手の特異な価値観が、未熟ながらもその一枚の服に投影されていたのだった。本当に価値あるものが栄える時代なら、第一流とまではいかぬが、今以上に注目もされ、報われもするだろう。しかし、身も蓋もない云い方だけれど、悲しいことに東京では、市場も批評家も新奇を追うことに急で(当今はまさにその逆で、人並み、世間並みが尊ばれるのだけれど)、服のデザインと生活者との橋渡し的な意味でガッチリと正道を歩む、地味な仕事には飽き易いのだから少しく辟易してしまう。昼間のワイドショーは云うに及ばず、夜の報道番組ですら変わってしまった。視聴者が求めているのは、テレビの作法や芸を身に付けた反射神経的な寸評ではなく、知識に基づいた確かな助言の筈である。確かに情報なくして我々の日常は立ち行かなくなっている。だが、先ず自分で考えることをしないと、ただ与えられた情報を鵜呑みにするだけに終わってしまうのではないか。これは自戒を含めて云うのだけれど。

 展示会(2021年春夏シーズン)にて1年振りに長見と対面した私は少しく心が晴れたような気がした。巷間に流布する「自粛生活」とか「新たな日常」と云う標語に、彼も私同様に一家言あることが判ってホッとした。本人の言葉を引いておくのが一番だろう。「『新しい日常』には強い反感を覚えています。一人ひとりが重ねてきた物語を漂白してしまうようなメッセージで、作り手としては許容し難かったのです。惑星規模の変化については疑いようもありませんが、それを感じて行動に移すのは、一人ひとりのこれまでの歩みの延長線上にあって欲しいと思います。ですので、ささやかながら人の生活に寄り添うプロダクトを提供する身として、過去からの連なり(前シーズン、或いは立ち上げ当初からの)は欠かさないよう、これまで以上に意識しています」

 パンデミックはファッションに、人間とテクノロジーとの、これまで以上に密なる対話を迫ろうとしている。実際のショーの代替としてブランドが打ち出す当今のデジタル配信もその一例。まさにこの瞬間こそ、たとい離れてはいても、人と人とを繋ぐことが出来るテクノロジーと人間性との橋渡しが極めて意味を持つ瞬間であるし、これが即ちポストパンデミックの有り様なのは否定出来ない事実である。人間の創意とテクノロジーとの対話の実例は「ハトラ」の最新作(2021年春夏コレクション)にも見て取れる。ジャカードニットを編むマシンと、マシンを稼働させる腕っこきの職人、そして凡てを監修するデザイナーの長見との協調が意味のある一着を生み出している。設計図上の色柄は、ジャカード機と云う変換装置を経ると、時に意図した風合いとは異なる柄に仕上がることもある。機械の誤作動とまでは云わないが、偶発的に生まれた色柄の妙は、テクノロジーとの真摯な対話が為せる神秘の産物と云えよう(彼の言葉は後述する)。

 前回(2020~21年秋冬)「ハトラ」は、鳥の剥製ばかりを収めた写真集に着想を得てコレクションを発表している。その作品群は、ファッションラボSynflux(シンフラックス)との協業で生まれた。Synfluxは、人工知能を活用して生地の廃棄ロスを最小限に抑えた型紙を割り出すパターンメーキングシステム「アルゴミック・クチュール」を開発するなど、サステイナブルな視点を持ったラボ。「そもそもSynfluxは多様な動物を学習させた、一種のデジタルキメラのようなイメージ作品を作っていました。そこから発展させて『ハトラ』と何が出来るかと考えた時に、古くから異界、或いは宇宙からの使いと考えられてきた『鳥』を題材に、この世に存在しない種をニットの形式へ変換すると云うアイデアへ至りました。コレクション全体もそこから広がったものです」と長見は語っている。

 実は長見は、今回も鳥のイメージに固執している。ファッションにはラジカルな速度が求められることもあるが、他方では、継続や連動を厭わない覚悟も大切な要素でもある。「今と半年前が、まったく別世界のように扱われる風潮に、作り手として抗いたかったのです」と云う彼の言葉のなんと逞しいことか。「ジャカードニットに関して、やっていることは前回から殆ど変わりません。ただ、テストを重ねる中で、画像からニットの編地データに変換する際の(編み機の)癖であったり、私自身が良いと感じる傾向が☆(手ヘンに國)めるようになりました。(編む前の)画像自体が良くても、編地変換との相性が悪い場合もあるのですね。そう云ったトライ&エラーを活かし今回は、より抽象度の高い『鳥』の4つの図案が出来上がりました。また、身体との関係を更に密接なものにしたいと考え、ワンピース丈のニットを新たに制作しています」と彼は語っている。

 人間の智慧、手の仕事とテクノロジー(例えば、人工知能からジャカード編み機までのマシン)との関わり方について長見は独自の考えを披瀝しているから少しく長くなるが最後に引いておきたい。「一時的にも季節の振り子が止まってしまったことの影響は出てくるように思います。それがセール時期の見直しなど良い方向に向かえば良いのですが、季節に代わって政局や企業の都合が私たちの時間感覚を支配するようになるとすれば、ファッションの自律性にとって大きな損失だと思います。外出自粛が続き部屋の作業環境を整える人が増える一方、キャンプが流行して『庭キャン』なる言葉も見掛けるようになりました。正直、これほどまでフィジカルな情報(昆虫の鳴き声、布の手触り、人の匂い...)への飢えが顕在化するとは想像出来ませんでした。私達の感覚器官と世界がどのように影響し合っているのか、少しずつ解きほぐし、デジタルで再現・拡張が可能なこと、一方ではやはり直接触れたほうが優位なことを見付けて、また繋ぎ合わせるような活動になればと思っています。『遊び』と云う言葉は『戯れ』、或いは『余剰』の意味で用いられますが、まさにその合わせ技でもって、テクノロジーと向き合うべきだと思います。3DやAIと云ったデジタル技術は失敗と云う概念の意味を変え、多様な可能性を示してくれます。資本の論理(効率化、最適化)に因われない技術の遊び方について考え、制作や教育を通して先行事例を作っていけたらと日々思っています」(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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