「村上春樹を読む」(109)惑星直列「四ツ谷」「阿佐ヶ谷」「渋谷」 『一人称単数』その3

『一人称単数』(文藝春秋)

 村上春樹作品が好きな人たちと、年に何回か読書会のようなものをやっているのですが、自分以外の人たちと読むことの楽しさに触れています。他の人の読み方を示されて、自分の読みが更新されていくのです。

 ☆

 例えば、こんなことがありました。

 数字の「四」は「死」を意味する数というのは、私(筆者)の村上春樹作品を読む際の大きな仮説です。この考えは「村上春樹を読む」の中で繰り返し紹介しているので、ある程度長くこのコラムを読んでいる読者なら、知っているかと思います。

 一例を示せば『海辺のカフカ』(2002年)の冒頭部に、主人公である「僕」は「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」という場面があります。同作は登場人物が「四国」高松の甲村記念図書館に結集する小説ですが、これは「僕」が単に「四国」へ旅をするのではなく、「死国」(冥界、異界、霊界)をめぐる物語だろうと考えています。

 この「四」=「死」について、考えるようになったのは、『ノルウェイの森』(1987年)を読みかえしていた時です。

 『ノルウェイの森』には京都のサナトリウム「阿美寮」の森の中で首を吊って死んでしまう「直子」という女性が登場します。その「直子」の死後、「阿美寮」で「直子」と同室だった「レイコさん」という女性が、東京の「僕」のところまで訪ねてきて、2人が関係するのですが、その場面では「結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさんは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき」と記されています。

 このように「レイコさん」と交わった場面で「四回」が強調されて、繰り返し記されているのですが、この「四回」は「死回」「死界」のことではないかと思うのです。「死の世界」のセックス、つまり「レイコさん」は死んだ「直子」の「レイコン(霊魂)」で、「霊子(レイコ)さん」ではないかと思っているのです。

 ☆

 その場面は『ノルウェイの森』の最終盤ですが、同作の序盤には「僕」と「直子」が中央線の電車の中で1年ぶりに偶然出会って、「四ツ谷」駅で降りて、駒込まで2人で歩く場面があります。『ノルウェイの森』は短編「螢」を長編化したものですが、「螢」でも「僕」と「彼女」が中央線の電車の中で半年ぶりに偶然出会って、「四ツ谷」駅で降りて歩く場面があります。

 私は、これは「直子」が「冥界」「死(四)の世界」を象徴する女性だから「四ツ谷」駅で降りて歩き出すのだろうと考えています。このような考えを記しながら、村上春樹作品をめぐる本をいくつか書いたこともあります。

 ☆

 そして、今年『ノルウェイの森』を読む会を催していたら(Zoomを利用した会です)、ある参加者から<「四ツ谷」は地下鉄が地上に出てくるという駅でもありますが、そういうことと「四ツ谷」で「直子」と「僕」が電車から降りて歩き出すことと関係がありますか?>という指摘を受けました。

 「エッ」と、正直、驚きました。そのような視点から「四ツ谷」について考えたことがなかったからです。でも考えてみれば、村上春樹作品の多くは地下の冥界(自分の心の闇の底)に降りていって、そこで自分の心の闇(異界・死者の世界)と対話をして、成長して、また現実の世界に戻ってくるという物語となっています。

 ですから「地下」の闇の世界と「地上」の現実の世界が接する場所「四ツ谷」、「地上」の現実の世界から、「地下」の闇の異界の世界へと侵入していく入り口としての「四ツ谷」というものを考えると、これはとても大切な指摘ではないかと思ったのです。つまり「四ツ谷」は単なる「四」ではないということです。

 ☆

 そんな指摘に接した後、今夏刊行された最新短編集『一人称単数』(2020年7月)を読み返していましたら、「四ツ谷」が新しい形で自分に迫ってきたのです。

 冒頭の短編「石のまくらに」にも「四ツ谷」が出てきます。

 この作品が雑誌「文學界」の2018年7月号に「三つの短い話」の一編として発表された時にも、「四ツ谷」が「死」と結び付いた場所なのだろうということを指摘して、「村上春樹を読む」で紹介しております。

 「石のまくらに」は「僕」が大学2年生で、まだ20歳にもなっていない頃、同じ職場で、同じ時期にアルバイトをしていた20代半ばくらいの女性に関する思い出です。

 「僕」は、その女性とふとした成り行きで一夜を共にすることになったのです。そのあと1度も顔を合わせていません。

 その「石のまくらに」で、「僕」が一夜を共にする「彼女」と一緒に働いていたのは「四ツ谷駅」近くの大衆向けのイタリア料理店です。そして「僕」と「彼女」が関係するのは「彼女が十二月の半ばでその店を辞めること」になって、ある日、閉店後に何人かで近所の(つまり「四ツ谷」ということ)居酒屋に飲みに行った夜のことです。

 この「四ツ谷」を数字の「四」=「死」の側から捉えていたのですが、それが間違いだということではありません。2年前の「村上春樹を読む」で詳しく紹介したように、この作品には多くの「四」=「死」に満ちています。

 ☆

 でも、短編集『一人称単数』としてまとまった作品群を読み返していたら「四ツ谷」の「谷」のほうが、新しく迫ってきたのです。

 「石のまくらに」の「僕」は、その頃「阿佐ヶ谷」に住んでいて、彼女の住まいは「小金井」でした。「だから四ツ谷の駅から一緒に中央線快速に乗って帰った。座席は二人で並んで腰掛けていた。時刻はもう十一時を過ぎていた」とあります。

 そして電車が「阿佐ヶ谷」に近づいて、「僕」が席を立って降りようとしたとき、彼女が「ねえ、もしよかったら、今日きみのところに泊めてもらえないかな?」と小さな声で言うのです。

 「いいけど、どうして?」と「僕」が聞くと、「小金井までは遠いから」と「彼女」は言います。

 そうやって「阿佐ヶ谷」の「僕」のアパートで、二人は関係しています。

 東京の中央線沿線に住んだ経験がある人ならわかるかと思いますが、快速電車に乗って、しかも座席にも座れていたら、「阿佐ヶ谷」から「小金井」まで、それほど「遠い」かというと微妙ですね。

 「僕」と関係したい「彼女」がその口実として述べているだけで、そんな「遠い」か「近い」などを考えるのは、野暮というものかもしれませんが、ともかく「四ツ谷」で出会った二人が「阿佐ヶ谷」で関係しているのです。

 ☆

 そして「僕」のアパートで、二人で缶ビールを飲んだ後、「当り前のように彼女は僕の目の前でするすると服を脱いで、あっという間に裸になり、布団に入った」とあります。

 『ノルウェイの森』で、「僕」が京都の「阿美寮」を訪ねると、「直子」が月あかりの下、「僕」の前で、自分から裸になって完全な肉体を見せる幻想的な場面があります。

 「直子」がガウンのボタンを外して「虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった」のです。「やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれおちて間のない新しい肉体のようにつややかで痛々しかった」とあります。

 短編集『一人称単数』の「石のまくらに」でも「彼女」(「ちほ」という名前のようです)が送ってくれた歌集を読んだ「僕」は「あの夜に目にした彼女の身体を、僕は脳裏(のうり)にそのまま再現することができた」とあって、それは「月光を受けて僕の腕に抱かれている、艶(つや)やかな肌に包まれた彼女の身体だった」と書かれています。

 両作に月光と艶やかな身体が共通して書かれているので、「石のまくらに」の「ちほ」という名の「彼女」は『ノルウェイの森』の「直子」と重なる女性として描かれているのでしょう。

 ☆

 次のようなこともあります。

 「阿美寮」の森の中で縊死してしまう「直子」は「死の世界」を象徴する女性ですが、「石のまくらに」の「彼女」によって「詠まれた歌の多くは――少なくともその歌集に収められていた短歌の多くは――疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていた」と書かれています。

 『ノルウェイの森』の「直子」は、「僕」の親友の「キズキ」の恋人でした。「キズキ」の死後、「直子」と「僕」が関係する小説ですが、「石のまくらに」の「彼女」にも「好きな人」がいて、「僕」と関係している最中にも「大声で男の名前を呼ぼう」としています。「彼女」が呼んだ男は「キズキ」かもしれないですね。

 ☆

 そのようなことを考えさせる「四ツ谷」と「阿佐ヶ谷」なのですが、短編集としてまとめられた『一人称単数』を読んでいると、さらに「渋谷」も重要な場所として出てきます。

 それは「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の「僕」が高校時代に付き合っていたガールフレンドの兄と再会する場所です。この作品が2019年の「文學界」8月号に掲載された時、「渋谷」でガールフレンドの兄と再会したことの意味にも触れて、「村上春樹を読む」の中で書いているので、詳しくは、それを読んでほしいのですが、その兄は、妹である「僕」の昔のガールフレンドの「死」を、35歳となった「僕」に「渋谷」で伝えています。

 つまり「四ツ谷」「阿佐ヶ谷」「渋谷」が、まるで「惑星直列」のように、並んで、迫ってきたのです。村上春樹作品の中の「谷」は、「死」と近いところ、「異界」と接するところとして描かれているのではないか……という思いです。

 ☆

 読み返してみれば『ノルウェイの森』で、「四ツ谷」駅に降りた場面は「僕と直子は四ツ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ケ谷の方に向けて歩いていた」とあります。「螢」にも同様に2人が「四ツ谷」から「市ケ谷」方向に歩きだすことが記されています。

 さらに、例えば、『1Q84』(2009年、2010年)の女主人公で殺し屋の「青豆」が作品冒頭、首都高速道路の非常階段を使って、「1984」年の「現実の世界」から「1Q84」年の「異界の世界」に入るのですが、その「1Q84」年の「異界」での最初の殺人を「渋谷」のホテルで行っています。

 そして『アフターダーク』(2004年)の主人公・マリが一夜を明かすのも「渋谷」の街です。この作品の舞台となる「ラブホテル」の場所を「新宿」と読む人もいましたが、マリの家は横浜の「日吉の方」にあると書かれているので、普通に読めば「渋谷」ではないかと思っていました。でもそれだけでは、舞台が「渋谷」とは特定できません。

 しかし深夜の「ラブホテル」で一夜を明かす、マリが自分の心の暗闇と接し、そこを通って成長する物語ですので、「四ツ谷」「阿佐ヶ谷」「渋谷」の「惑星直列」の中にある作品ではないかと思いました。

 ☆

 長年、気になっていた好きな作品のある部分についても、この延長線上に考えることができました。

 それは「午後の最後の芝生」(1982年)で「僕」がアルバイトをしている芝刈り会社のことです。その会社は小田急線の経堂駅の近くにあります。そして最後の芝刈りのアルバイト先は読売ランド近くの丘の中腹にある家でした。

 「やれやれ。なんだって神奈川県の人間が世田ヶ谷の芝刈りサービスを呼ばなきゃいけないんだ?」と「僕」は思います。

 「なんだって」というようなことを村上春樹が記す際、多くの場合、その理由を読者に考えてほしいという意味が反映した部分だと思いますので、ちょっと気になっていました。

 でもこれも「四ツ谷」「阿佐ヶ谷」「渋谷」と、「世田ヶ谷」という「惑星直列」の中にある作品なのかな……と思えてきたのです。

 「午後の最後の芝生」という作品も、芝を刈る家の中の「暗闇」(異界)に、「僕」が入って、そこでの体験から、自分がガールフレンドから振られてしまった理由に気がつき、成長して、その「暗闇」から出てくるという話です。

 「世田ヶ谷」にある芝刈りサービスの会社は、その「異界の暗闇」への侵入の起点となる会社だとも言えます。だから「世田ヶ谷」という「谷」なのかなと思えてきたのです。

 ☆

 このように考えながら、『一人称単数』として1冊にまとめられた作品群を読んでみると、その表題作「一人称単数」の「私」が春の宵、満月の夜、ビルの「地下」にあるバーに1人で飲みに行く話であることも、「地下」が「異界に近い」ゆえなのかなと思えてきます。

 さらに「クリーム」という作品は、かつて同じ先生にピアノを習っていたことがある女の子から、その女性が出るピアノのリサイタルに誘われる話ですが、リサイタル会場は神戸の山の上にあるので、「ぼく」が坂をどんどん上がっていく場面があります。

 「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」には、ガールフレンドの兄に「僕」が芥川龍之介の『歯車』の中の「飛行機」を朗読してあげる場面があります。「飛行士は高空の空気ばかり吸っているから、だんだんこの地上の空気に耐えられんようになる……」。そんな「飛行機病」の話が出てくる作品です。

 短編集『一人称単数』には、「四ツ谷」「阿佐ヶ谷」「渋谷」の「惑星直列」ばかりでなく、このように、高い土地、高い場所についての記述もあって、作品全体が高い空間・低い空間の中にある人間たちの物語となっていると思います。

 さらに考えてみると、村上春樹の作品全体が、登場人物たちがいる場所の高低の位置を常に意識した物語なのかなと思えてきたのです。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

******************************************************************************

「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

 https://shunyodo.co.jp/shopdetail/000000000780/

© 一般社団法人共同通信社