「村上春樹を読む」(108)「今」で繋がった短編集 『一人称単数』その2

『一人称単数』(文藝春秋)

 『一人称単数』(2020年7月、文藝春秋)は村上春樹によく似たような「私」や「僕」「ぼく」を語り手にした短編集ですが、それらの作品に必ず登場する「今」という言葉が印象に残る作品集です。「今」が貫かれた短編集だと思います。

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 冒頭の「石のまくらに」で「僕」が一夜を過ごすことになった「ちほ」という女の子は短歌を作っていて、のちに『石をまくらに』と題された歌集を「僕」に送ってきます。

 「僕は短歌についてはほとんど何も知らなかった(今だって同じくらい何も知らないのだけれど)」と、ここにも「今」が記されていますが、それに続いて「彼女のつくる短歌のいくつかは――具体的に言えばそのうちの八首ほどは――僕の心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた。たとえばこういう歌があった」とあります。

 そうやって、最初に紹介されるのが「今のとき/ときが今なら/この今を ぬきさしならぬ/今とするしか」というです。

 この「今のとき/ときが今なら/この今を/今とするしか」の歌が「僕の心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた」歌の例として最初に紹介されているのです。

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 続く「クリーム」の「ぼく」は「十代の頃のぼくは何かと面倒な問題を抱えて」おり、時たまストレス性過呼吸のようなパニック状態に陥り、身体が思い通りに動かなくなってしまいます。そのときも年に1度か2度くらい発作に襲われて「四阿のベンチの上で両目を固く閉じ、身をかがめ、そのブロック状態から解放されるのを」待っています。

 そして気がつくと「ぼく」の前に「四阿の向かい側のベンチにいつの間にか一人の老人が腰掛けて、まっすぐこちらを見て」います。

 その老人が「中心がいくつもある円や」、それを「しっかりと智恵をしぼって思い浮かべるのや」というのです。そして老人は「さあ、考えなさい」と言う。

 「もう一回目をつぶってな、とっくり考えるんや。中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円のことを。きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをなんとかわかるようにするためにある。へなへなと怠けたらあかんぞ」と話した後、

「今が大事なときなんや。脳味噌と心が固められ、つくられていく時期やからな」と言うのです。

 この「今が大切なときなんや」という言葉は「今だけが大切」ということではないでしょう。なにしろ「中心がいくつもある円や」「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」というむずかしいことを考えるには「今が大切なときなんや」という時が何度も、いつも巡ってくるように感じます。この日の体験を「ぼく」は年下の友人に語っているのですから。「今のとき/ときが今なら/この今を/今とするしか」ないのです。

 「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は「僕」が大学生の頃、大学の文芸誌に書いた架空のレコード批評をめぐる話です。チャーリー・パーカーが1960年代まで生き延びて、ボサノヴァに興味を持ち、もしそれを演奏していたら……という想定で書いたものです。

 この作品は後日談がいつか書かれています。それからおおよそ15年後、仕事でニューヨークに滞在しているときに、時間が余ったので、小さな中古レコード店に入ってみた「僕」は「Charlie Parker Plays Bossa Nova」というタイトルのレコードを見つけることになるのです。「僕」が勝手に書いた架空のレコード評なのに、そのレコードが存在していたのです。

 さらに後日談ですが「僕」はチャーリー・パーカーの夢を見ます。「そのとき僕には夢であることがわかった――僕は今、バードが登場する夢を見ているのだ」とあります。バードはチャーリー・パーカーの愛称です。

 そして夢に出てきたバードが「君は私に今一度の生命を与えてくれた」と語っています。「僕」も「あなたは僕に礼を言うために、今日ここに現れたのですか?」と尋ねている。

 「今一度」や「今日」は「今」という語と繋がったものだろう。創作的な批評が形となり、現実となって、今、ぐるっと回って「僕」に帰ってきているのだ。

 続く「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「ヤクルト・スワローズ詩集」にも「今」に関する記述が次のようにあります。

 「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の「僕」は神戸の山の上にあるかなり規模の大きな公立高校に通う。「僕」の初めてのガールフレンドとなったその彼女も、同じ高校に通う小柄でチャーミングな少女です。1965年の秋の終わり頃の日曜日、「僕」が彼女の家に迎えに行くと、なぜか彼女は留守で、家にいません。

 この話の「今」も深い印象を残します。彼女のお兄さんが出てきて、「サヨコはいないよ、今」と言います。「うちには今、誰もおらんみたいや」と彼は言います。

 少し、家で待たせてもらっても、ガールフレンドは帰ってきません。「僕」は、バッグの中に入っていた「現代国語」の副読本を読みながら待っていたのですが、ガールフレンドのお兄さんが「それ、ちょっと見せてくれ」と言うので、その本を渡すと、両手で本を持ってページをぱらぱらと繰って、「で、今はここのどれを読んでいたの?」と聞きてきます。

 そのやりとりの中で、ガールフレンドのお兄さんは自分の記憶がそっくりどこかに飛んでしまう病を抱えていることを「僕」に話します。「ひゅっと記憶が途切れているときに、もしぼくが大きな金槌を持ち出して、誰か気に入らんやつの頭を思いっきり叩いたりしたら、それは『困ったことでした』みたいな話では済まされんよな、ぜんぜん?」と言うのです。

 そして「僕」はガールフレンドのそのお兄さんの要望で芥川龍之介の「歯車」を朗読してあげたりしています。

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 このガールフレンドのお兄さんと再会したのは、それから十八年くらいあとのことでした。「僕は修理に出した腕時計を受け取るために、夕方前に渋谷の坂道を上がっていた」のですが、そのときすれ違った男に、背後から声をかけられます。

 それがガールフレンドの兄でした。兄の話によると、サヨコは亡くなったそうです。26の時に勤めていた損保会社の同僚と結婚して、子供を二人産んだが、それから自ら命を絶ってしまいました。まだ32歳やったとお兄さんは話しています。

 印象深い「今」が語られるのは、この後です。

 ガールフレンドの兄は、サヨコは自殺するかもしれんなんて、一度も考えたことがなかった。「今ではサヨコに悪いことをした」「何か少しでもわかってやることはできたはずや。あいつを死に導くことになった何かをな。そのことが今となってはとてもつらい」と言うのです。

 その悔恨の記憶が強く兄には残っているということです。つまり、ガールフレンドの兄の記憶が飛ぶ病気のほうは克服されているということなのでしょう。

 「君と会って話をした少しあとくらいからかな、それ以来記憶の喪失はもう一度も経験していない」「今は何とか人並みにやってるよ」とガールフレンドの兄は話していますし、「君はどうしている? ずっと東京に住んでいるのか?」と聞くので「今はいちおうものを書いて生活している」と「僕」はガールフレンドの兄に報告しています。

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 「ヤクルト・スワローズ詩集」では母親の「記憶」があやふやになり、一人暮らしが覚束なくなると、「僕」は母親の住まいの整理のために関西へ帰ります。プリペイド・カードが箱に詰まっていて、ほとんどが電話のプリペイド・カードでした。「今どきいったいどこでテレフォン・カードなんて使えばいいんだ?」と「僕」は漏らしています。

 この「ヤクルト・スワローズ詩集」の最後は神宮球場でのビールを飲みながらの観戦。

 「でもまあ、そこはいい。小説のことを考えるのはやめよう。そろそろ今夜の試合が始まろうとしている。さあ、チームが勝つことを祈ろうではないか。そしてそれと同時に(密かに)敗れることに備えようではないか」終わっています。この「今どき」や「今夜」も「今」の一部だろうと思って読みました。

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 興味深かったのは「謝肉祭」の「今」です。「謝肉祭」は異様に顔が醜い女性と知り合い、彼女の家にシューマンの名盤を聴きに通い、シューマンについて語るという小説です。

 「謝肉祭」について「悪霊の仮面の下には天使の姿があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができた――仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる挾間に生きた人だったから」と村上春樹は記しています。

 でも親しく一緒に音楽を楽しんでいた女性がしばらくして、資金運用詐欺で逮捕されてしまいました。この作品の最後には「今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。そんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらく遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺すぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄(すすき)の野原を一様にひれ伏せ、家々の扉を激しく叩いてまわる、秋の夜の風のように」。

 これは「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」のサヨコは自殺するかもしれんなんて、一度も考えたことがなかった彼女の兄が「今ではサヨコに悪いことをした」「何か少しでもわかってやることはできたはずや。あいつを死に導くことになった何かをな。そのことが今となってはとてもつらい」と語った記憶の力と繋がっているように思います。

 「品川猿の告白」は、5年前、一人旅をしていた「僕」が、群馬県のM*温泉の小さな旅館で、出会った年老いた猿から、好きな人間の女性の名前を盗んで、その名前だけを自分のものだけにしてしまうという宿痾を持っている身の上話を聞く話です。猿が名前を盗むのは品川あたりです。

 そして、その話を聞いて「それから五年が経過した今、そのときノートブックに書き残した覚え書きを元に、こうして品川猿の話を書き起こしているのは、つい最近いささか気がかりな出来事に遭遇したからだ」そうです。

 自分の名前がわからなくなってしまった旅行雑誌の美しい女性編集者に出会ったからです。彼女は運転免許証を亡くしてから、「どうしてか、自分の名前が思いだせなくなったんです」。旅行雑誌の美しい女性編集者とは、それ以来一度も会っていないので、だから彼女の名前がその後どのような運命を辿ったか、「僕には今のところわからない」そうですが。

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 最後に置かれた表題作「一人称単数」も「今」の連発です。

 普段スーツに身を纏わない「私」が、その夜は数年前に買ったポール・スミスのダーク・ブルーのスーツに合わせたネクタイとシャツを選んで、それを着て良い春の宵に街に出てビルの地下にあるバーに行きます。

 二杯目のウオッカ・ギムレットを注文して、読書をしていると「失礼ですが」と女性に声を掛けられる。随分熱心に本を読んでいらっしゃるみたいだけれど、「そんなことをしていて、何か愉しい?」と尋ねられる。少なからず悪意のある敵対意識の込められた言葉です。

 その女性が「ネクタイもそのスーツに今ひとつ雰囲気にそぐわない」というので、「洋服に随分くわしいんですね」と言うと「今さら何を言ってるの? そんなこと当たり前でしょう」という。

 「私」は、自分が今夜こうしてスーツを着て、ネクタイを結んでいる理由を彼女に説明しようかとも思ったが、思い直してやめます。この「今ひとつ」「今さら」「今夜」も「今」のことでしょう。

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 でも女性は「一度だけあるところでお目にかかったことはあるけれど」「でも私はあなたのお友だちの、お友だちなの」「あなたの親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も同じくらいあなたのことを不愉快に思っている」と、心当たりもないままに糾弾されるのです。

 「三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなにひどいことをなさったかを。恥を知りなさい」と女性が言う。

 心当たりのない「私」にしてみれば、どう考えても身に覚えのない不当な糾弾なので、反論すべきだったのだろうが、でもなぜかそれができない。「私はたぶん怖れていたのだと思う実際の私でない私が、三年前に『どこかの水辺』で、ある女性――おそらく私の知らない誰か――に対してなしたおぞましい行為の内容が明らかになることを」と村上春樹は書いている。

 ここにあるのは漠然たる違和感。そこには微妙なずれの意識がある。「自分というコンテクストが、今ある容れ物にうまく合っていない」という感覚のようです。

 「私のこれまでの人生には――たいていの人生がおそらくそうであるように――いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした」「そして私は今ここにいる。こうして一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?」と「一人称単数」の「私」は考えている。

 ここに「ちほ」の歌集『石をまくらに』の「今のとき/ときが今なら/この今を/今とするしか」を置いてみると、どこか響き合うものを、私は感じるのです。「今まで」で繋がった「今」の短編集『一人称単数』だと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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