麥田俊一の偏愛的モード私観 第18話「サカイ」

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 どんよりしていた空はまたぞろ篠突く雨を降らした。雨宿りとか相合傘とか、雨はよく恋の仲立ちをするもので、まして春雨であれば、シトシトと静かに、雨だれの音も何となく人の心をそそるような誠に恋の雨ともなろうが、昨日も今日もジメジメとした梅雨。色恋の這入る隙間なぞないとばかり、きょうびの長梅雨は一向に明けるつもりがないのだろうか。前回の「ジャンポール・ゴルチエ」の項で触れた「サカイ」の阿部千登勢を今回の主役に据えたのは、陰鬱な空に圧し潰されるわけにはいかぬとの思いに駆られたからだが、これも頗るつきに頼りない理由でしかない。ここは一つ、女性デザイナーの逞さに縋ってみたく思ったのである。それなりに時代には厳しいが、流行に棹を差すポーズを見せながら、実はその時代時代をリアルに捉える彼女の物の見方は、微妙な心理と時代解析力を持つ「目覚し時計」的な流儀に拠るものだろう。

 端は誰でもそうではないだろうか。但し、今の若いデザイナーの幾人がそうであるかは疑問なのだが。コム デ ギャルソンなど数社のアパレル企業で経験を積み、阿部が「サカイ」を起業したのが1999年。私は独立後間もない頃より取材をしてきたから聞き及んでいる。「サカイ」の発端は殆どニットアイテム(女性服)だけだった。数型のニットを携えた阿部は、手ずから小売店に営業して歩き地歩を漸次得てきた。因みに「サカイ」は本人の旧姓。2009年10月にパリにて初めてショーをするのだが、助走期間としてニューヨークのショールームへの出展を手始めに、パリの展示会を幾度か重ねることで外地でのアタリを探っている。2009年春夏より男性服を開始。現在は男女ともにパリのファッションウイークにてショーを発表。パリコレにて確固たる居場所を見付けた観があるのは今に始まったことではない。

 彼女を、気のさくい面白い女性、と云ったら本人は眉根を顰めるかも知れない。いい意味で飾らない、真っ直ぐで力強い女性の印象を云うのだ。野性と洗練、粋と頑迷、都会と田舎、反抗と包容力のように相反する特質を彼女ほど矛盾なく持ち得る女性デザイナーはそうざらにはない。これとて飽く迄も服作りの上でのことだけれど。だいぶん昔の挿話。「サカイ」以外の品を身に着け洒落た感じの本人を揶揄してみたことがあるが、「だって女の子ですもの。可愛いと思うものは誰だって欲しいものよ」と逆捩じを喰らってしまったことがある。この時私は、さすがだと思った。このミーハー気質にこそ、「サカイ」が東京らしさにこだわる所以があるのではないか。この場合は「東京らしさ」と云う形容は容易に使いたくはないのだが、そう云うしか言葉が足りないのだ。パリらしさや、ミラノらしさの模倣を以て海外で勝負するつもりなど端よりなかったのだから。普通なら「ミーハー」は皮肉めいて嘲笑的な形容だが、ここでは、ファッションに不即不離である「軽さ」と置き換えてもいい。主体性のなさを嬲るのではない。とりわけ女性服のデザインに於いては、象牙の塔に住まい、世間に隔絶していては無理だと云うことは、賢明な読者であれば直ぐに肯んずるであろう。勿論、彼女の流行モノ好きは、ただ流行に流されるだけの浮薄さに拠るものではなく、お洒落に貪欲な、着ることを楽しむ主体性に拠るものである。即ち、「軽さ」は彼女の流儀の一つである。

 純文学式の創作VSエンターテインメント型の服作りをしかつめらしく云々するよりは(少しく短絡的だが)面白ければそれで良いだろうと一旦開き直ってしまえば、「軽さ」を云々することは不毛の議論に過ぎないのだと早晩気付くことにもなろう。つまり、「軽さ」とは、先入観を捨て去った行動より生まれる「自由」と換言出来る。遊び心のある美しさ。そしてそれは、破壊的なもの。調和とは、寛容の精神より生まれる。創作の自由は解釈の自由に委ねられ、型を打ち破り、自由と云うものに形をもたらすものだ。そこには、男のデザイナーが持ち得ない(全くとは云い切れないが)着る側の女の等身大の慾が透いて見える。もしも忌憚のない評論が許されるとすれば、そこには、作り手としてのエゴを育てる、エゴを手懐ける気質が窺える。

 「サカイ」の服は、複数のピースに解体され、原型となる服の記号は惜しみなく剥ぎ取られ、四方八方何処から見ても複雑なアイデンティティーを以て新たに固定されたスタイルに変換されている。継ぎ接ぎの断片群。前後左右、アングルに準じて様々な味を満喫出来る。寧ろ継ぎ接ぎのぎこちなさはブリコラージュの特性である。エレガンスは勿論、アウトドア、スポーツ…あらゆる要素の混淆。生成変化の哲学の如く、固定観念を打ち破る換骨奪胎の手法は、このブランドの本質である。ときに、その変換はラジカルだ。開ける、閉める、ボタンを掛ける、巻きつける、頭から被る、留める、前身頃の打ち合いを開ける、閉める、ボタンを掛ける、ベルトを巻き付ける、頭から被る、肩から羽織る、そして重ねる...。紳士服や軍服の伝統様式とかパンクな精神は、阿部にとって馴染み深い題材だが、それは女性が男っぽい服を着る、と云うのとは別次元の話で、男の服に共通する、或る種の力強さ、様式の持つ厳格さに惹かれて、作り手の彼女はそれをどうでも味方に付けたいだけなのだ。解体と脱構築を自家薬籠中の物とする独自の哲学と流儀は、ドレッシング(服を着る)と云うファッションに於けるベーシックなコードを反転・逆転させながら、そのワードローブを進化させてきた。

 最後に最新作(2020~21年秋冬)に言及しておこう。異種混交の設計(「サカイ」流で云えばハイブリッドなデザイン)に、今回は些か変化が見られる。換骨奪胎の手法にいつもの大胆さがない。だからと云ってそれを直ちに、味覚が薄まったと短絡して貰っては困る。寧ろその逆で、平生よりも飾り気がなく(一層、本質的と云う意味なのだが)、遊び心と厳格さが真っ直ぐな力強さに直結している。無論、男女の境界を超えることに何の躊躇いもないことは云わずもがなである。一見、男前なパンツスーツに見えるルックは、モデルが歩き始めると、流れるようなドレスへとシェイプを変える。服の前身頃に刻んだ長いスリットと、騙し絵的なジャケットの細部がこうした錯視を誘うのだ。また、紳士服の原型にも、クチュール的な女性らしさをアレンジしている。例えばツイードで仕立てたチェスターフィールド。コートの前身頃は、サテン生地のドレスと溶け合うが如く、量感のあるパネル(ドレスの一部)で再構築されている。勿論、パターンメーキングの妙あってのことだが、最新作に見られる服の形は、構造に依ると云うより、使用した服地の巧みな扱いに依り作られたと云う印象が頗る強い。着用した時に、生地が流れるか固定されるかによって、形は生き生きと全く違う横顔を見せてくれるのであるから。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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