「村上春樹を読む」(106)再読、青い「トニー滝谷」 『村上T 僕の愛したTシャツたち』

『村上T 僕の愛したTシャツたち』

 村上春樹の短編集『一人称単数』が7月18日に刊行されました。小説作品の新作としては長編『騎士団長殺し』以来3年ぶり、短編集としては『女のいない男たち』以来6年ぶりの単行本です。

 文芸誌「文學界」に「一人称単数」の通しタイトルをつけて、少しずつ発表してきた短編をまとめた本です。書籍化にあたり、表題作に相当するタイトルの作品が書き下ろしの形で加えられていて、全部で8作の短編が収録されています。早速、私も『一人称単数』を楽しみながら読みました。

 ここで、この短編集を紹介することも考えましたが、でもまだ刊行された直後ですし、この短編集に収められたほとんどの作品について雑誌掲載時に「村上春樹を読む」で紹介してきました。私のコラムを読む読者の方々も、久しぶりの村上春樹の小説本をじっくり味わいたいのではないかと思います。そのような考えから、『一人称単数』については、一カ月おいて、次回の「村上春樹を読む」で取り上げてみたいと思います。

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 そして、今回のこのコラムでは、今年6月に刊行された『村上T 僕の愛したTシャツたち』(マガジンハウス)を紹介したいと思います。これは雑誌「ポパイ」の2018年8月号―20年1月号に連載された18のエッセーと、村上春樹のTシャツコレクションから108枚のTシャツのカラー写真が収録されている本です。この本のためのTシャツをめぐるインタビューも付いています。

 私は、とても楽しく読みました。気になるTシャツの写真が載っているところから、バラバラに読み出して、気がつくと、1回半ぐらい読んでしまいました。読者たちにも好評で、版を重ねているようです。

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 雑誌「カーサ ブルータス」の音楽特集でレコード・コレクションについてインタビューされた時に「そういえば、Tシャツのコレクションみたいなこともやってるんですよ」と話したことから始まった企画のようです。その言葉を逃さずに企画に結びつけた編集者にも感心しました。

 「まえがき」として巻頭に置かれた「つい集まってしまうものたち」という文には次のようにあります。ちょっと長いですが、この本を書いた村上春樹の気分がよく伝わってくる言葉なので引用してみます。

 「とくに貴重なTシャツみたいなのがあるわけでもなく、芸術性がどうこうというのでもなく、ただ僕が個人的に気に入っている古いTシャツを広げて写真を撮って、それについて短い文章をつける――というだけのもので、こんな本が誰かの何かのお役に立つとも思えないのだが(ましてや日本が直面している現今の諸問題を解決する一助になるとも思えないのだが)、20世紀後半から21世紀前半にかけて、一人の小説家がこういう簡易な衣服を日常的に身にまとって、まずまず気楽に生活を送っていたということを示す、後世のためのひとつの風俗資料としての意味はあるかもしれない。ぜんぜんないかもしれない。まあ、僕としてはどっちでもいいんだけど、このささやかなコレクションをそれなりに楽しんでいただければと思います」

 この一文の文体からも伝わってきますが、全文から村上春樹のTシャツ愛が読む者に、よく伝わってきます。何より、村上春樹も楽しそうで、村上春樹自身がこの連載を十分楽しみながら書いてきたことが、読む者に伝わってきて、それが心を弾ませるのです。

 レコードのコレクション中毒である(「病気」という自己認識もあるようですが)村上春樹らしくレコードがプリントされたTシャツもありますし、ビール関係のTシャツ、マラソン関係のTシャツもあります。村上春樹作品がTシャツとなったものも多くあります(ただし、こういうものは、本人は着られないですが)。フォルクスワーゲンのTシャツたちもあります。村上春樹が言うように、確かにTシャツに限って言えば、フォルクスワーゲンのTシャツはなかなかいい線をいっていると思いました。

 名古屋名物のみそかつ店、矢場とんのショップTシャツも楽しいです。作家ポール・セローにもらったメキシコ製のトランプTシャツにはスペイン語で“ドナルドはアホだ”とあります。

 インタビュー時にはなぜかちゃんとしたシャツを着ていたようですが、シャツの下にはTシャツを着ていて、それは吉本ばななさんにもらったものだそうです。村上春樹がハワイ大学にいる時に突然、吉本ばななさんが訪ねてきて、「お土産です」と言われてもらったもので、なかなか着やすいのでよく着ているそうです。

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 Tシャツのコレクションを通して、村上春樹の金銭感覚も伝わってきます。「1ドル99だと、大抵のものは買っちゃえと思って買うんだけれど、3ドル99は、ものによってはちょっとオーバープライスだと思うんですよね」とTシャツの購入価格幅について述べています。

 レコード蒐集についても「レコードでも50ドル以上は出さないとおっしゃってましたよね」というインタビューアの質問に「うん、そうですね、ゲームだから、ルールを作らないとゲームにならないですよね? 何でもお金を出しゃいいんだろうみたいな感じになってくるとつまらないです」と答えているのです。

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 そして、これらのTシャツコレクションの中で、村上春樹がいちばん大事にしているものは、それは、やはり「TONY TAKITANI」Tシャツだそうです。

 村上春樹はハワイ・マウイ島の田舎町のスリフト・ショップ(安売りの古物ショップ)で、このTシャツを見つけ、1ドルくらいで買ったそうです。

 「そして『トニー滝谷とはいったいどんな人なのだろう?』と考え、勝手に想像力を巡らせ、彼を主人公にした短編小説を書いて、それは映画にまでなった。たった1ドルですよ! 僕が人生においておこなったあらゆる投資の中で、それは間違いなく最良のものだったと言えるだろう」と村上春樹は書いています。

 映画は市川準監督で、トニー滝谷と父親の滝谷省三郎をイッセー尾形さんが二役、トニー滝谷の妻とアルバイトに応募してくる女性を宮沢りえさんが二役で演じました。イッセー尾形さんは村上春樹作品のファンだそうです。宮沢りえさんが美しかったですね。

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 今回、この本を読んでから、「トニー滝谷」を読み返しました。そして「トニー滝谷」という短編がまた新しい姿をもって、自分に迫ってきたのです。

 「トニー滝谷」は短編集『レキシントンの幽霊』(文藝春秋、1996年11月)に収録された短編です。そのストーリーを紹介すると、こんなことです。

 「トニー滝谷」は本名で、両親もれっきとした日本人でした。父親の滝谷省三郎は、戦前から少しは知られたジャズトロンボーン奏者で、中国に渡り、戦争中も彼は戦争とは関係ないような感じで暮らしていました。

 省三郎が、帰国したのは昭和21年(1946年)春。帰ってみると、東京の実家は前年3月の東京大空襲で焼け落ちて、両親はその時に亡くなっていました。兄はビルマの戦線で行方不明のまま。つまり滝谷省三郎はまったくの天涯孤独の身になったわけですが、彼はそのことをそれほど悲しいとも切ないとも感じなかったし、とくにショックも受けなかったようです。

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 そして、トニー滝谷の方の話です。省三郎は昭和22年に、母方の遠縁にあたる女性と出会い、一緒に暮らすようになります。

 「滝谷省三郎がどれほど妻のことを愛していたのか、トニー滝谷にはわからない。綺麗で物静かな娘だったが、体があまり丈夫ではなかった、と父親は言った」とあります。そして結婚した翌年には男の子が生まれました。トニー滝谷です。でも子供が生まれた三日後に母親は死んでしまいます。

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 妻の死後、省三郎は1週間、ほとんど何ひとつものを考えずに過ごしました。病院に預けっぱなしになった子供のことさえ思い出さなかったくらいでした。

 そんな省三郎を親身になって慰めてくれたのが「少佐」でした。彼らは毎日のように2人で基地のバーで酒を飲みましたが、少佐は「いいかお前はもっとしっかりしなくちゃならんぞ、何があっても子供だけはきちんと育てるんだぞ」と省三郎に強く言ったのです。

 そして、少佐はふと思いついたように「もしよかったら自分がその子供の名付け親になってやろうと申し出た」のです。

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 ここまでの紹介でも物語のほんのとば口ですが、私が新しい興味を抱いて、この短編を読み出したことについて、1つ2つ、そのポイントを述べておきたいと思います。

 「もしよかったら自分がその子供の名付け親になってやろうと申し出た」というのは、前回の「村上春樹を読む」で書いた『羊をめぐる冒険』(1982年)で「先生」の「運転手」が、名前の無い「猫」について「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」と申し出るのと同じですね。

 それに対して、『羊をめぐる冒険』の「僕」は「全然構わないよ」と応えています。すると「いわしなんてどうでしょう?」と「運転手」が提案するのです。

 また「トニー滝谷」では少佐が「自分のファースト・ネームであるトニーという名前をその子につければいい」と言います。「トニー」という名前はどう考えても日本の子供の名前としてふさわしいものではなかったけれど、それがふさわしい名前かどうかなどという疑問は、少佐の頭には一瞬たりとも浮かばなかったようです。

 『羊をめぐる冒険』の「運転手」の提案に「僕」は「悪くないな」としていますが、「トニー滝谷」の省三郎も「滝谷トニー、悪くないじゃないか」と思います。「これからはしばらくアメリカの時代が続くだろうし、息子にアメリカ風の名前をつけておくのも何かと便利であるかもしれない」と思うのです。このように「トニー滝谷」も「名付け」への村上春樹のこだわりが反映した作品です。

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 そしてもちろん、息子のトニー滝谷から見た父・省三郎の姿も述べられています。今年刊行されて版を重ねている『猫を棄てる 父親について語るとき』(2020年4月、文藝春秋)で、村上春樹と父親の関係が述べられていますが、この「トニー滝谷」も息子と父親の関係が描かれているのです。

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 さてさて、物語としての「トニー滝谷」は、まだこれからです。

 父親の省三郎は、息子のトニー滝谷を育てることに興味がなく、息子を家政婦に預けて、食事の世話などをさせていました。孤独を抱えて育った滝谷トニーは、絵を描くのが好きで、美術大学に進んで絵を学び、クラスメイトたちが「思想性のある」絵を描くことに熱心な中、「黙々と精密でメカニカルな絵」を描き続けました。

 しかしいったん大学を卒業すると、周囲の事情はがらりと変わって、その極めて実戦的な技術と、現実的な有用性のおかげで、トニー滝谷はひっぱりだこのイラストレーターとなるのです。自動車雑誌の表紙の絵から、広告のイラストまで、彼はメカニズムに関する仕事なら何でも引き受けて、ちょっとした資産家にもなります。

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 そのトニー滝谷の前に魅力的な娘が登場します。

 ある時、トニー滝谷のところにイラストを受け取りにきた若い娘の服の着こなしの美しさに感動して、その15歳も年下の娘に恋をし、結婚して、平和な日々が訪れるのです。「トニー滝谷の人生の孤独な時期は終了した」と記されています。

 でも、妻には1つだけ懸念されることがありました。それは「妻があまりにも多く服を買いすぎること」でした。「洋服を目の前にすると、彼女はまったくと言っていいくらい抑制がきかなくなってしまった。一瞬にして顔つきが変わり、声まで変わってしまった」のです。

 特に新婚旅行でヨーロッパに行ったときには、妻は朝から晩まで憑かれたようにブティックを回り、ヴァレンティノ、ミッソーニ、サン・ローラン、ジヴァンシー、フェラガモ、アルマーニ、セルッティー、ジャン・フランコ・フェレ……、彼女はただ魅せられたような目つきでかたっばしから洋服を買いまくるのです。

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 ついにトニー滝谷は「少し服を買うのを控えたらどうだろう」「こんなに沢山の高価な服が必要なんだろうか」と妻に告げるのです。

 それに対して、妻はしばらく考えていました。「あなたの言うとおりだと思う、こんなに沢山の服は不必要だと思う、それは私にもよくわかっているのよ、でもわかっていてもどうしようもないの、と彼女は言った。目の前に綺麗な服があると、私はそれを買わないわけにいかないの。必要だとか不必要だとか、数が多いだとか少ないだとか、そんなことは問題ではなくなってしまうのよ」と言います。

 それでも妻は、何とか、その状態を抜け出そうとし、行きつけのブティックに電話をかけて、10日前に買ったばかりでまだ袖を通していないコートとワンピースを返品できないだろうかと店長に伝えて、服を返しに行くのです。

 そして、ブティックに車で服を返しに行った帰途、交差点で黄色の信号を無理に突っ切ろうとした大型トラックが彼女の運転する車にぶつかって、妻は亡くなってしまいます。

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 また「独り」となったトニーは、死んだ妻が残した大量の衣服を着てくれる、妻と体型の似た女性をアルバイトとして雇おうとします。

 応募していた女性が、服のサイズを試してみるために衣装室に入り、服を何着か試しに着てみます。靴も履いてみましたが、服も靴も、まるで彼女のために作られたみたいにぴったりとサイズが合いました。

 彼女はそんな服をひとつひとつ手に取って眺め、指先で撫で、匂いを嗅いでみました。そして何百着という美しい服がそこにずらりとならんでいる服をみていると、「やがて彼女の目に涙が浮かんできた。泣かないわけにはいかなかったのだ。涙はあとからあとから出てきた。彼女はそれを押しとどめることができなかった。彼女は死んだ女の残した服を身にまとったまま、声を殺してじっとむせび泣いていた」と書かれています。

 しばらくあとでトニー滝谷が様子を見にやってきて、どうして泣いているのかと彼女に尋ねます。「わかりません」と彼女は首を振って答え、「これまでこんなに沢山の綺麗な服を見たことがないので、それでたぶん混乱しちゃったんです、すみません、と女は言った。そして涙をハンカチで拭いた」のです。

 このアルバイトに応募してきた娘が、独り嗚咽する場面が、とても印象的です。

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 長々、物語を紹介してきて、未読の読者にはもうしわけなく思います。ただし、この「トニー滝谷」という作品は、どれだけ詳しく紹介しても、作品の幅や深さが尽きることがありません。1つの読みとしての紹介はできますが、それはあくまで1つの読みに過ぎなくて、別のたくさんの読みを成立させる作品です。つまり名作短編だと言えます。これから記すことも、私の読みの1つです。

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 嗚咽したアルバイト応募の娘が帰った後、トニー滝谷は、かつて妻が着ていた服を見て「生命の根を失って一刻一刻とひからびていくみすばらしい影の群れに過ぎなかった」ことを感じ、「自分が今ではそんな服を憎んでいることにふと気づいた」りもします。

 そして、アルバイトに応募してきた女の子の家に電話をして「この仕事の話は忘れてほしい」と告げるのです。

 トニー滝谷は、古着屋を呼んで、妻の残していった服を全部引き取らせて、衣装室をからっぽにします。そして妻の死んだ2年後に滝谷省三郎が肝臓の癌で死にます。

 後に残されたものは形見の楽器と、古いジャズ・レコードの膨大なコレクションくらいでした。それらのレコードを宅配便会社の段ボール箱に入れたまま、からっぽの衣装室の床に積み上げておきましたが、一年後、そんなレコードの山を家の中に抱え込んでいることがだんだん煩わしくなってきて、トニー滝谷は中古レコード屋を呼んで売り払ってしまいます。

 「レコードの山がすっかり消えてしまうと、トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった」という言葉で、「トニー滝谷」は終わっています。

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 さて、この小説をどのように受け取るのか。トニー滝谷の妻の、衣服への自分でも止められない衝動買い(衣装買い中毒)の心理と、妻の服のサイズと同じ女性を雇おうとするトニー滝谷の心理の側から、読んでいくという読み方があると思いますが、でも今回の再読で、「歴史」の問題の中での「トニー滝谷」という作品が自分に迫ってきました。その点から、「トニー滝谷」について考えてみたいと思います。

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 この「トニー滝谷」には『レキシントンの幽霊』に収録された版とは別にショート・バージョンがあります。雑誌「文藝春秋」の1990年6月号に掲載されたものです。この短い版が最初に発表され、そのロング・バージョンが『村上春樹全作品1979~1989 (8)』(1991年7月)に収録され、その長い版を少し手直ししたものが『レキシントンの幽霊』に収録されたという経過です。

 そして、短い版と長い版の大きな違いは、トニー滝谷の父親・滝谷省三郎が中国に渡った経緯と時期、場所の差異ではないかと思います。

 最初に発表された短い版では、省三郎は「戦争の始まる三年前に、ちょっとした面倒を起こして東京を離れなくてはならなくなり、どうせ離れるならということで中国にわたった。そして日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと到る戦乱激動の時代を、上海や大連のナイトクラブで気楽にトロンボーンを吹いて過ごした」とありました。

 これが長い『レキシントンの幽霊』版では「太平洋戦争の始まる四年ばかり前に、女の絡んだ面倒を起こして東京を離れなくてはならなくなり、どうせ離れるならということで楽器ひとつを持って中国にわたった。その当時、長崎から一日船に乗れば上海に着いた」「揚子江を遡る船のデッキに立ち朝の光に輝く上海の優美な街並を目にしたときから、滝谷省二郎はこの街がすっかり気に入ってしまった。その光は彼にひどく明るい何かを約束しているように見えた。彼はそのとき二十一歳だった」とあります。

 さらに「そのようなわけで、日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと到る戦乱激動の時代を、彼は上海のナイトクラブで気楽にトロンボーンを吹いて過ごした。戦争は彼とはまったく関係のないところで行われていた。要するに、滝谷省三郎は歴史に対する意志とか省察とかいったようなものをまったくといっていいほど持ち合わせない人間だったのだ。好きにトロンボーンが吹けて、まずまずの食事が一日に三度食べられて、女が何人かまわりにいれば、それ以上はとくに何も望まなかった」と加えられています。

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 つまり最初に発表された短い版では「戦争の始まる三年前」とあった省三郎の中国渡航の時期が、長い版では「太平洋戦争の始まる四年ばかり前」、つまり1937年にはっきり限定されています。1937年は盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が起こった年です。上海へ日本軍が進撃して占領して事変を起こしていますし、南京事件が起きた年です。

 その時に、省三郎は上海に渡ったのです。短い版では「戦乱激動の時代を、上海や大連のナイトクラブで気楽にトロンボーンを吹いて過ごした」とありますが、それも長い版では、省三郎の行動は主に「上海」に限られていて「甘いそのトロンボーンの音色と、巨大にして活動的なそのペニスとによって、当時の上海の名物的存在にさえのしあがったのであった」と記されています。

 上記したように、短い版にはない「要するに、滝谷省三郎は歴史に対する意志とか省察とかいったようなものをまったくといっていいほど持ち合わせない人間だったのだ」という言葉が書き込まれていて、戦争や歴史との関係をより、読者に意識させる表現となっているのです。

 昭和21年(1946年)の春、滝谷省三郎が日本に帰国した時、「彼はそのとき三十歳になっていた」ので、滝谷省三郎は1916年(大正5年)生まれなのかもしれません。『猫を棄てる 父親について語るとき』によれば、村上春樹の父親は1917年、京都生まれなので、1年違い。もちろん滝谷省三郎とはまったく異なる人物像ですし、村上春樹の父親と滝谷省三郎を重ねて読む必要はありませんが、でもほぼ同年代の青年として、滝谷省三郎と村上春樹の父親は、戦争の中を生きて、戦後の日本を生きた1人だと言えます。

 その滝谷省三郎の息子が、トニー滝谷です。省三郎は昭和22年(1947年)に結婚。「翌年には男の子が生まれた」とありますので、トニー滝谷は昭和23年(1948)年生まれです。昭和24年(1949)年生まれの村上春樹と1年違いですが、やはりほぼ同年代といえます。

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 トニー滝谷は美術大学で「まわりの青年たちが悩み、模索し、苦しんでいるあいだ、彼は何も考えることなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた。それは青年たちが権威や体制に対して切実に暴力的に反抗していた時代であったから、彼の描く極めて実際的な絵を評価するような人間は周囲にほとんど存在しなかった。美術大学の教師たちは彼の描いた絵を見ると苦笑した。クラスメイトたちはその無思想性を批判した。しかしトニー滝谷にはクラスメイトたちの描く『思想性のある』絵のどこに価値があるのかさっぱり理解できなかった。彼の目から見れば、それらはただ未熟で醜く、不正確なだけだった」と記されています。

 ここで、私(小山)の個人的な体験を記すつもりはないのですが、私も村上春樹と同年なので、ここで記されたことはよくわかります。

 特に、母1人、子1人の母子家庭の貧しい家で、私が育ったためもあるかもしれませんし、個人的な資質の問題かもしれませんが、同世代の人たちの過剰な「思想性」についていけない部分もありました。

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 でも、一方で「何も考えることなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた」トニー滝谷のような価値観だけでは、大切な何かが足りないということも強く感じて学生時代を過ごしていました。

 たとえ、彼らの「思想性」が未熟で醜く、不正確なだけであっても、青年たちが権威や体制に対して切実に暴力的に反抗していた時代とその後の時代への生き方として、トニー滝谷のような在り方では、大切な何かが足りないのです。

 例えば、省三郎は同時代の青年たちが戦争にかりだされて、兵士として生きた時代の中を、トロンボーンとまずまずの食事と、何人かの女とともに過ごしました。

 では「まわりの青年たちが悩み、模索し、苦しんでいるあいだ」「何も考えることなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた」トニー滝谷は「歴史に対する意志とか省察とかいったようなもの」を十分に持ち合わせている人間だと言えるでしょうか……。

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 何が足りないのか。それは人間というものに対するほんとうの認識と、その時代を生きる「歴史」というものへの認識だと思います。

 村上春樹が「歴史」意識のことを書いていると思えるのは、トニー滝谷の妻が死ぬ場面とその直後の場面です。この妻が亡くなる場面や妻の代理のような服のサイズが同型の女性が登場する場面は、「青」の色に満ちています。

 妻はいったん購入したコートとワンピースを車に積んで返しに行くのですが、ブティックは「青山」にあるようです。

 交差点の一番前に停まって信号を待っているあいだ、彼女はずっとそのコートとワンピースのことを考えていました。それがどんな色をしてどんな恰好をしていたか、どんな手触りだったか、彼女ははっきりと記憶していて、それゆえに、額に汗が浮かんでくるのが感じられ、ハンドルの上に両肘をついたまま、大きく息を吸い込み、目を閉じ、日を開けたとき、信号が「青」に変わるのが見えて、はじかれたように思い切りアクセルを踏みこんで死んでいくのです。

 その彼女の運転する車は「ブルー」のルノー・サンクと記されています。妻は「246号線を通ってそのまままっすぐ家に」帰る途中で事故に遭っていますが、国道246号線の東京都千代田区から渋谷区までの区間の通称は「青山通り」です。妻は「青山通り」で死んでいるのです。

 さらに、トニー滝谷は、残された妻の服を着てもらうために妻の体型に近い女性を選ぶわけですが、その面接場所である彼の仕事場兼事務所は「南青山」にあります。そして、選ばれた「これといって特徴のない顔をした二十代半ばの女」は「飾り気のない白いブラウスを着て、ブルーのタイト・スカートをはいていた」と書かれています。面接が終わって、家に帰った彼女は面接のために着ていた服を脱いでハンガーにかけて「ブルージーンズとトレーナーシャツ」に着替えています。

 ここには、明らかに「青」「ブルー」への村上春樹の意識的なこだわりが表れています。

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 その村上春樹のこだわる「青」は、私は「歴史」について述べる際に使われる色ではないかと考えていて、何度か、この「村上春樹を読む」で記してきました。

 一例を挙げると、『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)の第3部に赤坂ナツメグという女性と「僕」が、彼女の「歴史」について話す場面があります。1945年8月15日、つまり終戦の日を含む夏に、彼女とその家族に何があったのかを赤坂ナツメグが「僕」に語る場面です。

 それを語るために、彼女はタクシーで、新宿西口から、「青山」に移動しています。「彼女は僕を近くのイタリア料理店に連れていった」と書かれていますし、「僕らはいつも同じレストランで、同じテーブルをはさんで話をした」と記されています。その「青山」にあるレストランで、「僕」は赤坂ナツメグから、彼女の「満州」での生活のことなどを聴くのです。

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 ですから、この妻が事故で死に、妻と同じ体型の女性が応募してくる「青」と「ブルー」に彩られた場面は、村上春樹が日本の「歴史」について記している場面ではないかと、私は考えているのです。

 なお、『ねじまき鳥クロニクル』の単行本の第1部の冒頭部には「僕」の家の近くに、トニー滝谷という有名なイラストレーターが住んでいることが書かれています。「非常に克明なメカニズムのイラストレーションを専門とする人物」で「先日交通事故で奥さんをなくして、一人で大きな家に住んでいる」のです。でも『ねじまき鳥クロニクル』の文庫版では「滝谷さん」は近くに住んでいますが、それが「トニー滝谷」なのか、有名なイラストレーターなのかは、なぜか記されていません。

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 さて「トニー滝谷」の妻の死と、よく似た体型の女性の登場を、日本の「歴史」との関係で考えてみると、「トニー滝谷」がどのように私に迫ってきたかということを記してみたいと思います。

 作品にも記されているように、戦争と関係がないように生きた「滝谷省三郎は歴史に対する意志とか省察とかいったようなものをまったくといっていいほど持ち合わせない人間だった」ことは明らかです。では、トニー滝谷はどうでしょう。

 「何も考えることなく黙々と精密でメカニカルな絵を描き続けた」トニー滝谷は、戦後黙々と精密機器を作り続けて、高度経済成長というものを作った日本人と重なってくるように思えるのです。

 近年は中国人の<爆買い>が話題となりますが、かつて日本人も、トニー滝谷の妻が新婚旅行で、高級衣装を買いまくったように、本当に自分に必要かどうかわからないものを、高級なブランドというだけで<爆買い>をしていた時代があります。そんな戦後日本人の「歴史」とも重なってくるのです。

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 紹介したように、トニー滝谷は1948年(昭和23年)生まれです。妻が青山通りで死んだ後、アルバイトに応募してきた女性は22歳で、トニー滝谷とは15歳違いとあるので、彼は37歳です。ですから「トニー滝谷」の妻が死んだ時代の設定は1985年ぐらいの時代ということになるのかと思います。

 バブル経済に入っていく、ほんの少し前の時代です。まだ円高の影響もあった時期ですので、単純には語ることができませんが、ショート・バージョンの「トニー滝谷」が発表された1990年6月号のころには、バブル経済の翳りも見え始め、ロング・バージョンが『村上春樹全作品1979~1989 (8)』に収録された、1991年7月には、バブル経済は崩壊しています。

 そのように、戦後の日本経済や日本社会の在り方をぴったりと重ねて読むと、小説があまりに味気ないものになってしまいます。でも、そんな視点を持って、この「トニー滝谷」という作品を受け取ることにも少し意味があるように、私は感じるのです。

 そして「トニー滝谷」という主人公の奇妙な名前、アメリカと日本が合体したような名付けにも、この小説と戦後日本社会の「歴史」との関係が反映しているように思えてくるのです。

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 『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ方には、よくわかるかと思いますが、村上春樹には、父親の「歴史」を引き受け、自分の生きた世代の「歴史」を語ることに、1つの使命感のようなものがあると思います。1つの繋がった「歴史」です。それに繋がる問題意識も「トニー滝谷」という作品に感じます。

 その父親との関係で、もう1つ興味深い場面が長い版の「トニー滝谷」にあります。妻と一緒に父親の演奏を聴きに行く場面です。それを聴いて「父親のプレイはとても滑らかで、品が良くて、スイートだった。それは芸術ではなかった。しかしそれは一流のプロの手によって巧妙に作りだされ、聴衆を心地良い気分にさせる音楽だった」と記されています。

 これは、トニー滝谷の描くイラストレーションに対する自己批評とも受け取れますね。「何も考えることなく黙々と精密でメカニカルな絵」を描き続けたトニー滝谷の作品も「それは芸術ではなかった」わけですが、そのことを自覚して、別な世界・芸術の方にいく可能性がトニー滝谷にあるということでもあると考えています。つまりトニー滝谷は、妻と出会い、妻に恋をして、そういう力に目覚めているのではないかと思うのです。

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 そして、その愛する妻について、こんな言葉が作中に記されています。

 「時には妻の顔さえうまく思い出せなくなることがあった。しかし彼はときどき、かつてその部屋の中で妻の残していった服を見て涙を流した見知らぬ女のことを思い出した。その女の特徴のない顔や、くたびれたエナメルの靴のことを思い出した。そして彼女の静かな鳴咽が記憶の中に蘇ってきた」

 愛する妻の顔は思い出せなくなり、名前も覚えていない女が泣き、涙する姿だけが忘れられないのです。

 これが、この作品の最も謎のような言葉かと思います。でも村上春樹作品で、登場人物が涙するところ、泣くところは最も重要な場面です。登場人物の成長が記されている場面です。人間の生きる力の根源に触れているところだと思います。

 トニー滝谷の妻は「何事にも節度というものをわきまえていた」人間でした。そういう人間が何かに「抑制がきかなくなってしまう」のです。「ただただ単純に我慢ができなかった」という状態になってしまうと書かれています。

 こんなことがあるでしょうか……。でも例えば日本人の姿を振り返ってみれば、こういう姿があります。「日本人はとても優しい」という特徴があります。それは多くの国の人たちが言うようなので、そうかもしれません。でも一方で、戦争中の行動を見れば、とても残酷にもなれるということだと思います。もちろん、戦争の中での行動は、なにも日本だけのことではないかと思いますが、同じ民族で、そういう「ある時、とても優しい。ある時、とても残酷」ということがあり得るということです。

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 節度があるだけでは、大切な何かが足りないのです。「抑制がきかなくなってしまう」のです。そんな状態にならないのには、この世にしっかり生きる核芯のようなものと繋がっていなくていけないのだと思います。今回考えたように、しっかり「歴史」と繋がって生きることが必要なのだと思います。

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 そしてもう1つ大切なことは、自分としっかり繋がっていないものを前にして、ハッとして、泣ける力だと思います。本来、それは、どんな人間にも根源的に具わっている力です。本当の繋がりを求めて、泣ける力です。

 衣装室で静かに鳴咽する女の記憶だけが蘇ってくるということには、トニー滝谷が、その大切な根源的な力に目覚め始めていることではないかと考えています。もちろん、その根源的な力は、亡くなった妻にもあったはずのものです。静かに嗚咽する同じ体型の女は妻の霊魂、幽霊の魂が泣いているようにも受け取ることができると思います。

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 この作品の最後は「トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった」という言葉ですが、本当にひとりとなることは、本当に大切なものを知った者にしか訪れないことだと思います。作中、父親・滝谷省三郎は「本当にひとりぼっちになった」ことはない人間として在ると思いますが、トニー滝谷は父親とは異なる人間になれる可能性を抱いているということだと思います。

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 『村上T 僕の愛したTシャツたち』を読むうちに「トニー滝谷」を再読して、こんなにたくさん同作のことを記すとは思っていませんでした。

 でも「Tシャツ」という安価で簡易な衣服から、高級衣装を買いまくる女性のことを考えていくという村上春樹の発想に触れることができて、「トニー滝谷」をとても味わい深く読むことができました。

 そして、この『村上T 僕の愛したTシャツたち』のカバーを外してみると、「TONY TAKITANI」Tシャツが表紙になっています。本文の最初に登場するTシャツも「TONY TAKITANI」Tシャツです。村上春樹にとって、このTシャツがいかに大切であるか、また「トニー滝谷」が、いかに大切な作品であるかを物語っているように感じます。

 ちなみに、実際の「トニー滝谷」さんはハワイ州下院議員の民主党候補で、その選挙用に作ったTシャツだったそうです。「トニー滝谷」を含めた小説が出版され、英語に翻訳されて、「私がトニー滝谷です」という手紙を滝谷さんが村上春樹にくれたそうです。

 滝谷さんは、その時は落選。でも今では弁護士として成功していて「今度一緒にゴルフをやらないか」と言われたけど、村上春樹はゴルフをやらないので会っていないようです。

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 最後に加えておきますと、中国文学者・藤井省三さんの『村上春樹のなかの中国』(2007年)という本の第1章に秀逸な「トニー滝谷」論があります。「トニー滝谷」という作品に興味を抱いている読者には、お勧めです。

 今回、私が記したことの中に、同書から学んだことも含まれていることを記しておきたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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