麥田俊一の偏愛的モード私観 第17話「ジャンポール・ゴルチエ」

阿部千登勢とジャンポール・ゴルチエ(PHOTO: Gio Staiano)

 自粛生活に代わる新たな日常に不慣れだからか、仕事の合間合間に、気が付けば、ぼんやりと身体の何処かしらに生じた空隙に嵌り込んでいる。それにもし雨でも降ってご覧なさい。それも潔いくらいに豪快な土砂降りで心の洗濯をしてくれるように思われる雨ではなく、ヴェルレーヌのようにしとしと音もなく沁み入るように心を濡らす雨が。そんな日は何かと気ぶっせいだ。鬱陶しい湿気で飽和した陋室の空気はいよいよ呼吸し難いものになってくる。遅々として捗が行かぬ仕事の前を中座し、厨より酒を持ち来て猪口を舐め始める。昼下がりの酒に救いを求めたのだ。小人閑居して不善をなすと孔子は宣もうたが、明け切れぬ梅雨のこんな日の私の註釈は、この不善を二合足らずの安酒にしか見ないであろう。どうやら酒が浸みてきた。太々しい迄に葉緑素が濃い庭の柿の葉叢の青臭い匂いが感じられ、松葉を打つ雨音を聞き分けるゆとりが漸く出来たようである。

 小連載の標題「私観」にある通り、端より私感とハッキリ断った上である。かてて加えて時節をわきまえなくてはと、また、徒らに感情を突っ走らしてはいけないとも心している。何故なら、ファッションを語る折にこれまで書いてきた言葉、例えば、○○風とか流行りの意のモードとか、アバンギャルドとか、贅沢を絵に描いたオートクチュールとか、エレガンスなど(いずれもほぼ死に体に近い言葉だけれど、それはそれ、意味は通る)が、巷間のパンデミック収束後の日常とか云うものと、果たして如何ように整合性を持ち得るか。その確証がとれないまま向後のことを語ることは飽く迄も私感の域を出ないのだから。おまけに新たな日常に於けるファッションの未来図もてんで見えてこないのだし。

 だが一言附言を赦されるならば、期せずして数多の難題を抱え込んでしまいファッションの今はまさしく混沌としているが、その意気が再び盛んになるには、これまで以上にひとの智慧と想像力が必要とされてくることは必定で、ファッションの源流と本質を心の底から感じることが過去と未来を繋ぎとめる役割を担う筈であり、その気運は必ずや兆すものと信じて疑わない。如何にファンタジーとそれを生み出す土壌が浮世離れと揶揄されようが、よしんば手荒く開墾し尽くされようとも、そこに地息のようなものがあって、その土中の微細な虫の如く、これからの私はファッションの根にあるファンタジーを呼吸して仕事をしていくのだろう。後ろに夢はないと承知しなければならなくとも。眼を三角にして諌める人がいたとしても。

 パリの1月と7月は、オートクチュール(女性向けの高級注文服)のショーが発表される月で、2月と10月はプレタポルテ(女性向けの既製服)が発表される時期だ(所謂パリコレと云われるウイーク)。本当ならこの7月、一等面白いショーが予定されていたのだったが、残念ながら時節に徴してショーは来年1月に延期されている。一等面白いとは、ジャンポール・ゴルチエと、東京を拠点とする阿部千登勢とのファンタジックな協業を云うのである。御大ゴルチエの狙いは、シーズン毎に、メゾンの美学をそれぞれの解釈に基づき表現してくれるデザイナーを招き、自らのクチュールの新たなビジョンを発信しようと云うもので、その嚆矢に抜擢されたのが、今やパリのファッションウイークにて不動の人気を誇る「サカイ」の阿部千登勢だった。数ヶ月前に配信されたプレスリリースにある阿部の言葉を引いておく。曰く、「破壊的なフェミニティーを表現するジャンポールならではの独自のビジョンとオリジナリティーを、モノ作りを始めた当初から長い間称賛してきました。本プロジェクトの初めてのデザイナーとして彼のハウスに迎えられたことを大変光栄に思います」。

 生粋のパリジャンであり、パリモードの奇才と謳われたゴルチエは、ピエール・カルダンにその才能を見出された。カルダンを辞し、1970年代後半に自身のコレクションを発表。80年代に入るとプレタポルテのショーを本格的に開始している。とりわけ90年代初頭の作品の随所に、既にクチュール的なエッセンスが散見していたが、点睛を忘れなかったのだろう。ゴルチエ修行時代のカルダンのメゾンがクチュールを手掛けていたこともあり、彼は自らのキャリアの早期に於いてクチュールと云う仕事に並々ならぬ興味を持ち始めていた。そして1997年1月。遂にゴルチエは初めてオートクチュールのショー(1997年春夏)を発表する。「自分の基本に戻ってみた」と云う彼の言葉が私には印象的だった。10年前の取材ノートを見返してみると、彼はこう語っている。「クチュールはパリにとって特別なもの。例えば、川久保玲(「コム デ ギャルソン」)、山本耀司、アズディン・アライア、ティエリー・ミュグレーと云った80年代に擡頭した彼等の服作りは、本来のクチュールと云う定義では括れないけれど、発想や表現は実にクチュール的な精神に満ちている。他のデザイナーが束になって掛かっても絶対に真似の出来ないオリジナリティーがそこにはあったのだから」と云うのだ。勿論そう語った当時のゴルチエ本人も、自ら恃むところは頗る厚かったに違いない。

 彼は自らクチュールのデビューショーに「ヨウジヤマモト」の山本耀司を招待している。滅多に他人のショー会場には姿を見せない山本は、友人の英断を見届けに来たのだ。因みに、この頃(1995年より2000年あたり)の山本は、「不遜に聞こえるかも知れないけれど、クチュールならいつでも出来るよ」と自ら表明するほどの勢い猛で、その自負はそのまま彼の仕立てる服の沽券となっていたのだと思う。確かに山本は、往時のパリのクチュールだけが持つ気品を自家薬籠中の物としていたが、実は「敵は本能寺」で、クチュールの古臭い伝統を諧謔と洒脱を効かせた独自のローアングルの視点を通して見直し、その格式を徹頭徹尾洗い直し、本来のクチュールの顧客であったところの富裕階級を大っぴらに揶揄する、まさに胸が空くようなエンターテインメントをシーズン毎に用意した。当時のパリが自分に何を期待しているのかを彼は知り尽くした上で、その期待に充分に応えたのである。パリの伝統的な美の規範とも云われたクチュールの本歌取り式の服作りは、手厳しい眼を持つパリをも酔わせた。そのひとを酔わせるものも、知的な品格によって優雅な節度を保っているからこそ輝いて見えた。当時の山本の世界は、未だ直観と知性の分裂を知らない世界と云えた。既に道があいているので進み方も早かった。会場に居並ぶ招待客が服地の匂いさえも嗅ぐことが出来るくらいの規模(間近で服を見て貰いたいと云う意)を念頭に置き、山本は2002年7月、プレタからクチュール期間中に発表の場を移す。因みにこの時はクチュール期間の前日に2003年春夏を発表。その後4回、クチュール仕立ての既製服をその期間に発表することになる。

 閑話休題。クチュールに言及するあまり話が逸れてしまった。竜頭蛇尾に終わらぬよう話題をゴルチエに戻そう。如何に詳しく記したところで、モードをこれまでとは異なる方向に大きく旋回させた立役者であるゴルチエ世界の全貌を尽くすわけにはいかないが、一応の予備知識として、とりわけ90年代前半の彼の並外れた時代の先見性について少しく掻い摘んでおく。それを尤も明確に証明して見せたのが、性に対するズバ抜けたセンスに於いてである。例えば、スポーツウエアやミリタリーを手懐けたカジュアルミックスは云うに及ばず、ランジェリーを一着の服として扱い、ゲイカルチャーとかサドマゾとかのアンダーグラウンドシーンに急接近する芸当などは、現代では然して吃驚するほどの手ではないが、当時のパリモードから見れば相当に衝撃的なネタであり、禁じ手とは云わないまでも、誰もが積極的には扱わなかった題材だった。そしてそれらは総じて彼の性に対する絶妙のスタンス故に、ドギツイながらも一種のエスプリとして充分に受け容れられたのである。パリとは随分と風通しがいいところだと、当時の私は頻りに感心したものだ。

 とりわけ90年代より2000年代初頭にかけての尤も盛んな時期に番度新しく繰り出されるゴルチエの提言は、単に性を語り掛ける安直なものではなかった。彼は全面的な性の公開を試み、性への幻想、卑小な欲望、女性に向けられたステレオタイプな期待と云ったものがまったく無効であることをデザインで示唆した。今から30年前に、来たる未来を予言していたとするのは些か一知半解の見方かも知れないが、実際、性に纏わる真理に通暁していたことは、少なくともモードを以て現代のジェンダーレスの風潮を云い当てたことに照らしても明らかであろう。性別と云う人間の尤も根源的な縛りをいとも容易に解き放ち、ジェンダーに対してあからさまに対等の態度をとれる男女像を活写し、性別の新たな在り方を提示することに成功したゴルチエは、所謂流行(モード)をではなく、ラジカルなスピードを身に纏って欲しいと考えていた節があった。過激で前衛的なデザインが、時にレッドカードすれすれのラフプレーに映じたとしても、知的な挑発そのものが折り紙付きのファンタジスタとしての面目を施すことになるのである。モードにコミュニケーション機能を尤も期待していたデザイナーの一人であるゴルチエだけに、現代に於ける尤もラジカルなメディアとしての協業相手に接近せざるを得なかったのは自明の理であるし、此度、見事にそれを見付けたわけである。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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