『食っちゃ寝て書いて』小野寺 史宜著 これは、誰の世界か

 日なたを生きる者と、日陰を生きる者がいるのだとしたら、自分はおそらく、後者であろう。自らをそんなふうに見定めながら、生きる人は少なくないだろう。何をもって「日なた」と呼ぶのかは、人それぞれだ。たとえば俳優やミュージシャンなど、表現者たちの一部は「売れる」ことをそう呼ぶだろうし、売れようが売れまいが、自分の思う表現を続けることができる人生に満足する者もあろう。

 本書の主人公は、50歳に手が届くものの、なかなかヒット作に恵まれない小説家と、真面目に取り組んではいるももの、ヒット作を手掛けることができない30歳の編集者だ。小説家の人物像は、やっぱりどうしても著者自身をイメージしてしまう。彼は毎朝4時に起き、午前中すべてを費やして書く毎日を、ここ何年も続けている。仕事の合間には身体訓練も欠かさないストイックさだ。でも、主人公はイマイチ、売れない。編集者は、志望した医学部にすべて落ち、文学部に入ってなぜかボクシングに打ち込み、しかしプロテストに落ちて出版社に入社した。その稀有な経歴を面白がってくれる恋人に恵まれたけれど、そこ止まりで足踏みを繰り返す彼の生き方に、愛想をつかして去ってしまう。

 ふたりとも、日なたへ出る方法がわからない。長い間、積み重ねてきた「自分」の外へ出ることができない。どんなに壁を叩いても、その壁は音も立てない。ぼよん、ぼよよん、てなもんである。だから、彼らは自分のことばかり考える。なので、恋人に別れを切り出されたり、長年の親友からがんを報告されたりすると、大いにうろたえる。――思い当たるふしがある。ありまくる。

 そして彼らは、ある局面で、それまでの「自分」の外へ出る。つまり、本気を出す。片方の本気にもう片方が気づき、こちらもまた、本気を打ち返す。そのあたりから、気流が変わる。そして突然、景色が反転するのだ。

 どこからどこまでが、誰の視点で、誰の世界だったのか。読み手がうろたえている間に、物語はストンと終わりを迎える。この読後感は何だろう。顔を上げて周りを見渡すと、そこにあるのは、私の世界だ。

(KADOKAWA 1700円+税)=小川志津子

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