「サッカーコラム」日本人2人目のプロを知っていますか さまざまな苦難を乗り越えた尾崎加寿夫

世界ユース選手権のアルジェリア戦を戦う日本代表。尾崎はこのチームの中心選手だった=1979年8月27日、旧国立競技場

 「2位じゃダメなんですか?」 以前、とある政治家が発し流行になったフレーズだ。「1位」や「初めて」が与えるインパクトに比べると、「2位」や「2番」の印象は確かに薄い。それでも、価値に優劣が付けられるわけではない。未知の世界に勇気を持って挑むことは、それだけで尊いものといえるからだ。

 日本人初のプロ・フットボーラーといったら、サッカーファンのほとんどがJ1横浜FCで会長を務める奥寺康彦と答えられるに違いない。

 では、2人目は?

 こう問われて、答えられる人はかなりのサッカー通といえる。

 それは、日本サッカーがまだアマチュアの時代だった。奥寺に遅れること6年。西ドイツ(当時)1部リーグ・ブンデスリーガの1983年シーズンプログラムに、日本人2人目の選手が掲載されることになった。それがアルミニア・ビーレフェルトの尾崎加寿夫だった。

 尾崎は60年3月7日生まれ。同じ年の10月30日には、アルゼンチンで“神童”マラドーナが生を受けた。不思議な縁だろうか。日本の「マラドーナ世代」は常に世界を意識できる、当時としては恵まれたサッカー環境を与えられることになる。

 79年、日本はサッカーの国際大会の開催権を得た。マラドーナ擁するアルゼンチンが圧巻の優勝を飾った「第2回世界ユース選手権=現U―20ワールドカップ(W杯)=」だった。開催国でアジア予選が免除された日本は名伯楽・松本育夫監督の下、2年間にわたり強化を敢行。数多くの海外遠征もこなした。その日本代表のキャプテンとしてチームをリードしたのが日大高校(神奈川)から三菱重工入りした尾崎だった。

 81年、初のA代表入り。翌82年、尾崎の名が欧州でニュースになった。日本代表の強化試合として行われたジャパン・カップ(後のキリン・カップ)。オランダの強豪フェイエノールトと対戦した日本代表は5―2で大勝した。この試合で4ゴールをたたき込んだのが22歳の尾崎だった。奥寺擁するベルダー・ブレーメンが優勝したこの大会で尾崎は4試合で6得点を挙げる活躍を見せた。

 名門チームを相手に活躍すれば、プロチームは当然、興味を持つ。加えて、当時の西ドイツには奥寺という成功例がある。しかし、奥寺が日本サッカー界が後押ししてドイツに渡ったのと対照的に、尾崎の場合は移籍の仕方に少し問題があった。

 その問題が起きたのは、翌83年の5月末から6月にかけてのことだった。同じ時期にはジャパン・カップが開催されていた。尾崎はケガを理由に代表を辞退した。当時、日本代表の最大目標は五輪出場。同年9月からはロサンゼルス五輪のアジア予選が始まる。その大事な時期に、中心選手として期待された尾崎の姿がチームになかったのだ。

 実を言うと、尾崎はケガをしていなかった。そして、日本にもいなかった。彼は周囲の誰にも相談せずに、単独で西ドイツに渡りビーレフェルトのテストを受けていた。1年前のジャパン・カップで見せた活躍を評価したビーレフェルトから声を掛けられていたのだ。

 居所を突き止めたのは筆者と親しい先輩記者だった。国際電話代の高額な時代に、先輩記者はホテルに電話をかけまくった。「日本人は泊まっていないか」と。そして、執念で尾崎の宿泊先を突き止めたのだ。

 うそをついてまで自らのプロとして生きる道を求めた23歳の尾崎。ロス五輪は結果としてプロが初めて参加したのだが、アジアではプロという発想はない。尾崎がプロになれば、日本代表として戦えない。当然だが世間からは大きな批判を浴びせられた。

 振り返ると、95年にメジャーリーグに渡った野茂英雄も同じだった。先駆者は立ちはだかる障害を乗り越えなければならないのだ。

 結果として、三菱重工は尾崎の意を酌み退部処分とした。これにより日本サッカー協会は移籍証明書を発行し、尾崎は晴れてビーレフェルトの一員となった。

 驚いたのは、直後の開幕戦だった。強豪ケルンと対戦したビーレフェルトは、先制されながらも1―1の同点で試合を終えた。その同点ゴールを奪ったのは尾崎だった。開幕戦でいきなりのゴール。しかも相対したGKが、西ドイツ代表の名手ハラルト・シューマッハーだったのだ。これ以上のスタートはなかった。

 ビーレフェルトで5シーズン、ザンクトパウリで1シーズン。尾崎は1部で62試合(9得点)、2部で57試合(9得点)に出場した。オーバーリーガ(アマチュア)でプレーした後、90年に古巣に戻った。そして、Jリーグ初年度の93年に川崎(現東京V)に移籍。リーグ出場こそ2試合に止まったが、リーグ優勝の喜びとともに現役を終えた。

 奥寺のような成功が収められなかったのは事実。しかし、尾崎は確実にドイツの地に足跡を残した。木村和司(日産、現J1横浜M)が国内チーム所属選手として初のプロとなったのは86年。日本サッカー界のバックアップを受けて「プロ」の名称を得た木村とは対照的に、尾崎は苦難を乗り越えて自らの力で手に入れた。わずか3年だが、フットボーラーとして同じ夢を実現するための過程には大きな差があったのだ。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はロシア大会で7大会目。

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