「希代の名選手、名監督」野村克也氏が死去 野球界に生き続ける数々の遺産

インタビューに答える野村克也さん=2019年3月、東京都内

 「ノムさん」の愛称で親しまれた野村克也氏が2月11日、虚血性心不全のため亡くなった。84歳。

 プロ野球界にとっては、昨年末に死去した金田正一氏に次ぐ訃報でショックは大きい。あらためて「昭和」という時代が遠くなっていくことを実感させられる。

 戦後初の三冠王にして、監督としてもヤクルトを3度の日本一に導くなど、野球人として圧倒的な実績を誇った。

 「名選手、必ずしも名監督にあらず」とは球界に広く伝わる言葉だが、この人の場合は当てはまらない。まさに、名選手にして名監督、さらに付け加えるならユニホームを脱いだ後の評論家時代も名解説者だった。

 野村氏の84年の歩みを分析すると、そこには弱者が這い上がるための努力と知恵がバックボーンにある。

 京都の無名校、峰山高校からテスト生として南海に入団するも、1年目のオフには解雇寸前の窮地に立たされる。

 そこで一計を案じ「クビになるなら、南海電車に轢かれて死にます」と直訴。選手生命をつなげると3年後には本塁打王になった。

 輝かしい実績を引っ提げて選手兼監督にも就任、当時の「売り」がシンキングベースボールだった。後にヤクルトで一世を風靡する「ID野球」の原型である。

 「ONがひまわりなら、自分は夜に咲く月見草」。時代は巨人が圧倒的な人気を誇り、パ・リーグの注目度は低かった。

 王貞治氏は甲子園、長嶋茂雄氏は神宮の人気者から鳴り物入りで巨人入り。これに対して自分はたたき上げで実績を残しても世間は取り上げてくれない。そうした反骨心やコンプレックスが、後の野村氏を作り上げていった。

 「クイックモーション」は当時の最速ランナーである阪急・福本豊選手の盗塁をどう防ぐかと腐心して考え出された。

 阪神の絶対的エース江夏豊投手を南海が獲得すると、先発完投型から抑えに転向させて「ストッパー専任制」を確立する。

 現役時代はマスク越しに打者にぼそぼそささやいて集中力をそらす「ささやき戦術」も駆使した。

 その後の「ID野球」「野村再生工場」の根底には、弱者がどうすれば強者を倒せるかという知恵が絞られている。

 「監督・野村」の代名詞となった「ID野球」にもう少し触れてみる。

 2月12日付のスポーツニッポン紙面では「緊急連載・ノムラの遺産」としてその詳細が報じられている。

 ヤクルト監督就任1年目の1990年春の米国ユマキャンプで、野村氏の独演会は始まった。

 夜のミーティングは1時間半に及び、選手は指揮官の説く持論を熱心にメモしていったという。

 「ID」とは「インポータント・データ」の略だからデータ野球をたたき込んだと思いがちだが内実は違う。

 最初の1週間は人生論からスタート。人としての成長が野球の上達につながり、人間性がプレーに出る。時間はみんなに平等、どう使うかで人生は変わる。多少の力量の優劣は、取り組む姿勢や知恵を絞ることで克服できる。

 万年Bクラスに沈む弱小チームへの意識改革を進めた上で、実践論に入ると投手心理、打者心理の分析からアウトカウントや状況に応じた対応術までを指導。その数年後に弱者が大輪の花を咲かせる。

 野村氏を語る時、「サッチー」こと沙知代夫人の存在も忘れてはならない。

 南海時代に知り合ったとき、野村氏には妻がいて不倫、略奪愛と騒動になった。プレーイングマネジャー時代には、沙知代夫人が選手起用にまで口出しするとの噂が立って解任に追い込まれる。

 阪神の監督時にも夫人の脱税事件が原因で退任した。外から見れば節目、節目で「サッチー」の弊害も感じられるが、決して野村氏は責めることなく、夫人を守り通した。

 野村氏は評論家としても長く茶の間で愛された。的確な評論は定評のあるところだが、あの独特の「ぼやき節」が人気となり、講演や著書の執筆に引っ張りだこ。

 バブルの時代には1回の講演で200~300万円を稼ぎ、それを1日で2、3回こなすのは当たり前。著書は150冊近くに上っている。彼の人生論や組織論は多くの会社に受け入れられた。

 こうした講演、著作業を巧みにプロデュースしたのが沙知代夫人である。

 「野村克也-野球=ゼロ」と公言する私生活はもちろん、衣装のコーディネートから日々のスケジュール管理までコントロールする伴侶は、かけがえのない存在だった。

 山あり谷ありの生涯だが、その死に接して「あの人がいたから今の自分がある」と語る野球人の多さに驚く。

 気が付けば今の球界に野村門下生の監督は6人に上る。ヤクルト・高津臣吾、楽天・三木肇、日本ハム・栗山英樹、西武・辻発彦、阪神・矢野燿大、中日・与田剛の各氏。「侍ジャパン」の稲葉篤紀監督も加えれば7人になる。

 希代の名選手にして希代の名将。野村氏の遺産は、これからも生き続ける。

荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル

スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。

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