『聖なるズー』濱野ちひろ著 長い序章としての記録

 「私には愛がわからない」「セックスがわからない」。プロローグで著者は出発点をこう明示する。19歳から10年間、パートナーから激しい性暴力を受け、支配され続けた。愛もセックスも「わからない」のは、それが理由だ。

 離婚によって物理的支配から脱しても、怒りや自責から逃れられない。「解放されたい」と切実に願う。その手段として大学院に入学し「文化人類学におけるセクシュアリティ研究」を専攻する。研究テーマとして選んだのは「ズー」だ。

 それにしてもなぜ、ズーなのか。動物園のことではない。ズーとはズーファイル、つまり動物性愛者のこと(動物性愛のことはズーフィリアという)。

 動物をセックスの対象にするといえば、獣姦が思い浮かぶが、ズーはそれとは異なる。獣姦が動物を単なる性行為の対象とするのに対して、ズーは動物に感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を持つ。両者を分けるメルクマールは、愛があるかどうかだ。「それは、人間にとっての愛やセックスそのものの意味を根本から問い直すことにも繋がるだろう」

 こうして愛と性の意味を知るため、ドイツにある動物性愛者の団体「ゼータ」のメンバーたちを訪ね始める。

 いくつもの問いが浮かび、解が示され、また問いが浮かぶ。

 動物とセックスするのは「異常」「動物虐待」ではないのか。ズーとパートナーとの関係で最も大切とされる「対等性」は本当に実現されているのか。両者の間に生まれる「パーソナリティー」とは何か。ズーがいいなら、小児性愛(ペドフィリア)もいいのか。ズーは本能的な性的指向なのか、意志的な選択か。

 そうした問いに、ズーたちの姿や言葉をもとに丁寧に向き合っていく。小さな違和感も置き去りにしないのは、出発点の問いが切実で真剣だからだろう。

自らに課した調査(取材)手法のハードルは高い。

 「質問し、回答を得る『インタビュー』然としたやりとりでは、彼らが繰り返し考えてきたであろうこと、つまりすでに頭の中で論理立てられている話しか出てきづらい」「ともにだらだら過ごし、冗談を言い合い、食事の用意や洗濯、掃除と、日々のあれこれを一緒にやっていると、次第に見えてくることがある」

 ときには数週間も彼らの家に滞在する。食事を一緒にとる。メンバーの「妻」や「パートナー」の多くは犬だが、その散歩にも同行する。研究や調査というより、人間同士の付き合いを深め、人間そのものを理解しようとしているようだ。

 食事の場面では、しばしばジャガイモ料理「クヌーデル」が供される。「ドイツらしいご馳走」「これを食べなければドイツに来た意味がない」といった枕詞を伴って。だが、著者はこれが苦手らしい。どうやって切り抜けるのか。重い内容の本書に、ユーモアの彩りが添えられる。

 こうして寝食を共にする日々の中から浮かび上がるのは、ズーたちの生き方だ。自分自身と動物を深く見つめ、社会常識が許さない関係性を築いている。そして著者も、それに深く影響されていく。

 ズーたちが求めるのは「誰を愛するかの自由」だが、自分が求めるのは「セックスを語る自由」だと述べたうえで、こう書く。

「暴力を受けてから二十数年がたち、いま、こうして経験を綴ることができたのは、ズーたちから勇気をもらえたからだ」「怒りや苦しみから目を逸らすことはもうない。私はいま、性暴力の経験者として『カミングアウト』をしている。それは自分の過去を受け止め、現在から未来へと☆(繋の車のタテ棒が山)ぐ作業だ」

 プロローグと本編は逆転していたのだと気づく。プロローグで明かされた性被害を書くための長い序章として、ズーたちの記録があった。

(集英社 1600円+税)=田村文

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