『さよならの儀式』宮部みゆき著 絶望と希望の同居

 宮部みゆきは人間の底知れぬ闇をまっすぐ見つめて、深く絶望している。同時に、人に対する信頼を強固に持っている。いや、「強固」という言葉は適切ではないかもしれない。柔軟で優しいまなざしで社会を捉えている。人に対する絶望と希望を同時に抱え込むことができる強靭な精神力が、この作家の持ち味だ。

 『さよならの儀式』はSF8編を収めた作品集。ロボットやタイムスリップといったSFの要素が散りばめられ、魅力を放つが、核にあるのは人間への絶望と希望が同居する興味であり、問いである。

 冒頭に置かれた『母の法律』は、虐待を受ける子どもを救済する法律「マザー法」が存在する社会が描かれる。

 かつて被虐待児だった「わたし」は4歳7カ月のとき、咲子ママと憲一パパの子どもになった。ママとパパにはすでに9歳10カ月の翔と5歳半の一美もいたので、5人家族になった。マザー法の傘の下に入る子どもたちは「記憶沈殿化」の治療を受ける。虐待の記憶、実父母や血縁者らの記憶が蘇らないような措置を受けるのだ。

 子どもを社会で育てる仕組みは一見よさそうに見えるが、好奇や偏見の目にさらされることもある。マザー法に反対する活動家もいる。だから「マザーの子」であることは、積極的に口にしないようにしてきた。でも、家族5人は幸せだったし、「わたし」にとって自慢の養父母だった。

 「わたし」が16歳になったとき、咲子ママが病死し、家族は解体されてしまう。マザー法では、養父母が離婚するか一方が亡くなって一人親になった場合、未成年の養子は「グランドホーム」に戻らなければならないからだ。

 姉の一美とともにグランドホームで暮らし始めた「わたし」に、ある女性が接触してきて、実母についての情報をもたらす。「実の母親に会うべきよ。会えば必ず心が通じるし、あなた自身のことがよくわかる」

 「わたし」はどうするのか―。

 『聖痕』の語り手は個人で調査事務所を構える女性調査員。ある日、寺嶋庚治郎と名乗る男が事務所を訪れる。かつて「少年A」と呼ばれた若者の父親だ。彼の息子、和己は12年前、14歳の時に実母とその内縁の夫を殺して首を切断した後、学校に行って担任の女性教師に傷を負わせて人質にとり、教室にたてこもる事件を起こした。

 和己は虐待の被害者だった。実父の庚治郎が和己の更生に力を尽くしたこともあって、和己は少年鑑別所を出た後、働き始めた。順調に更生の道を歩んでいると思っていたが、和己は自分がネット上で「黒き救世主(メシア)」として扱われていることを知る。それは子どもを餌食にする犯罪者たちに鉄槌をくだす「人間を超えた存在」だった―。

 表題作『さよならの儀式』は、長年一緒に暮らしてきたロボットとの別れが印象深く語られる。『わたしとワタシ』では、45歳の「わたし」と高校生の「ワタシ」の邂逅がユーモアを交えて描かれる。

 どの作品も長編になりそうな題材なのに、スパッと切れ味よく数十ページで描き切る。だが、内包される問いに、明快な結論を示しているわけではない。

 例えば『母の法律』は、親に虐待を受けた子どもの傷の深刻さと回復の難しさを描き、あなたはこの問題とどう向き合うのかと突きつける。『さよならの儀式』は、人間とは何かと深く考えさせずにはおかない。

 いくつもの問いが読者の中に残される。

(河出書房新社 1600円+税)=田村文

© 一般社団法人共同通信社