「村上春樹を読む」(95)関西弁の村上春樹作品 「『ヤクルト・スワローズ詩集』」と父親

 北海道大学で、7月20日21日の両日、第8回村上春樹国際シンポジウム(主催は台湾の淡江大学村上春樹研究センター)が「村上春樹文学における『移動』(Movement)」をテーマに開かれ、それを聴きに行ってまいりました。

 この毎月の連載も既に95回目となりました。でも8年も連載していると、自分の読みが型にはまったものになりがちです。ですからこのような集まりは、自分の村上春樹作品の読みの世界を拡げるいい機会だと思っています。今回も自分の読み方が更新されていく発表がいくつもありました。

 前回、「文學界」2019年8月号に掲載された連作短編「一人称単数」の2つの短編のうちの「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」について「僕のかつてのガールフレンド・サヨコはどうなったのかなども記さなくてはなりません」と書いていたので、その続きを書くことが、今回の連載の義務でもありますが、まず、北大でのシンポジウムで、興味深かった発表を一つ紹介したいと思います。

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 それは、言語学者・日本語学者である大阪大学の金水敏教授による「村上春樹と方言について」という話です。関西生まれで、関西育ちの村上春樹は関西弁を話す人間として育ったわけですが、デビュー以来の小説を標準語というか、東京弁で書いてきました。その村上春樹作品に登場する関西弁についての考察です。

 金水教授は、まず、エッセイ集『村上朝日堂の逆襲』(1986年)に収められた「関西弁について」という文章を紹介しました。それは、次のように書き出されています。

 「僕は関西生まれの関西育ちである。父親は京都の坊主(ぼうず)の息子で母親は船場(せんば)の商家の娘だから、まず百パーセントの関西種と言ってもいいだろう。だから当然のことながら関西弁をつかって暮らしてきた。それ以外の言語はいわば異端であって、標準語を使う人間にロクなのはいないというかなりナショナリスティックな教育を受けてきた。ピッチャーは村山、食事は薄味、大学は京大、鰻(うなぎ)はまむしの世界である」

 阪神タイガースファン以外の若い読者には、もしかしたら「ピッチャーは村山」の部分が少しわかりにくくなっているかもしませんが、村山実は巨人の長嶋茂雄、王貞治両選手の好敵手として活躍し、2代目ミスタータイガースと呼ばれた阪神の伝説的な名投手です。

 村上春樹はそれに続いて、

 「しかしどういうわけか早稲田に入ることになって(早稲田大学がどういう大学かというのも殆ど知らなかった。あんなに汚いところだとわかっていたらたぶん行かなかった)あまり気が進まない東京に出てきたのだが、東京に出てきていちばん驚いたことは僕の使う言葉が一週間のうちにほぼ完全に標準語――というか、つまり東京弁ですね――に変わってしまったことだった。僕としてはそんな言葉これまで使ったこともないし、とくに変えようという意識はなかったのだが、ふと気がついたら変わってしまっていたのである。気がついたら、『そんなこと言ったってさ、そりゃわかんないよ』という風になってしまっていたのである」

 早稲田大学で学ぶ人や学んだ人には「あんなに汚いところ……」などは、ちょっとキツイ言葉かもしれませんね。でも、このエッセイの最後に、関西弁と東京弁と、自分の小説の関係について、次のように村上春樹は記しているのです。

 「僕はどうも関西では小説が書きづらいような気がする。これは関西にいるとどうしても関西弁でものを考えてしまうからである。関西弁には関西弁独自の思考システムというものがあって、そのシステムの中にはまりこんでしまうと、東京で書く文章とはどうも文章の質やリズムや発想が変わってしまい、ひいては僕の書く小説のスタイルまでががらりと変わってしまうのである。僕が関西にずっと住んで小説を書いていたら、今とはかなり違ったかんじの小説を書いていたような気がする。その方が良かったんじゃないかと言われるとつらいですけど」

 そんなふうに考えている村上春樹の作品に、関西弁を使った小説が現れてくることを金水教授は指摘していったのです。

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 例えば『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』(1995年)の「ことわざ」という掌編(ショートショート)に、こうあります。

 「猿やがな。なんせ猿がおったんや。嘘やあるかい、ほんまもんの猿が木の上におったんや。わしもそらびっくりしたわ」

 こんなような調子で、全編関西弁で書かれています。

 また『海辺のカフカ』(2002年)には、「僕」が留まる高松市の甲村記念図書館で、同図書館を案内するツアーに参加すると「大阪からやってきた中年の夫婦」も加わっています。甲村家は代々文芸に造詣が深く、種田山頭火も数度投宿し、そのたびに句や書を残していきましたが、当主のお眼鏡にかなわず、ほとんどが廃棄されてしまったそうです。

 「そら、もったいないことしましたな」「山頭火、今やったらもうえらいお値打ちですのにねえ」と大阪から来た夫婦の奥さんは言い、夫のほうも関西弁で「ほんまに、ほんまに」と相づちを打っています。

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 さらに『アフターダーク』(2004年)では、本名隠して、ラブホテルの店員として働いているコオロギという女性が「そら、会社やからね、マジでやりますがな」「ほんまに。気いつけなあかんわ」と関西弁で話しています。

 また『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)の中の「アイロンのある風景」に出てくる「三宅さん」という男性も「若いゆうのもきついもんやねん」「俺かてな、なんにも考えてへんねん。アホの王様やねん。わかるやろ」と関西弁で話します。

 昨年の「文學界」7月号に発表された「三つの短い話」(「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」)のうちの「クリーム」には「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」と話す老人が出てくるのです。

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 金水教授は、このように多くの例を挙げながら(各引用の箇所や長短などは、このコラムを読む読者のために、私=小山=が少し変えています)、村上春樹作品に関西弁で話す人物の登場を指摘したのです。

 これだけの例を示されると、偶然ではなく、村上春樹が何かの考えを持って、関西弁を話す人たちを描いているのだろうと考えていいかと思います。

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 さらに、東京・田園調布の生まれにもかかわらず、「ほぼ完璧な関西弁」をしゃべる木樽という男が出てくる『女のいない男たち』(2014年)の中の短編「イエスタデイ」について、金水教授は紹介しています。

 東京生まれの木樽が関西弁を覚えた理由は「おれは子供の頃から熱狂的な阪神タイガースのファンでな、東京で阪神の試合があったらよう見に行ってたんやけど、縦縞のユニフォーム着て外野の応援席に行っても東京弁しゃべってたら、みんなぜんぜん相手にしてくれへんねん。そのコミュニティーに入れへんわけや。それで、こら関西弁習わなあかんわ思て」というのです。

 金水教授によれば、木樽のようなタイプを、ヴァーチャル方言の一種である「方言コスプレ」というのだそうです。それに関しては、田中ゆかり著『「方言コスプレ」の時代――ニセ関西弁から龍馬語まで』という本があるそうです。

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 その「イエスタデイ」の僕が木樽と知り合ったのは、早稲田の正門近くの喫茶店でアルバイトをしている時のようです。どちらも20歳で、誕生日も1週間しか違いません。僕は早稲田大学文学部の2年生、木樽は浪人2年目。そして「僕は生まれたのも育ったのも関西だが、ほぼ完璧な標準語(東京の言葉)をしゃべった。そう考えてみれば、僕らはけっこう風変わりな組み合わせだったかもしれない」と村上春樹は書いています。

 金水教授の指摘を紹介したように、『村上朝日堂の逆襲』の「関西弁について」で、早稲田大学に入って「僕の使う言葉が一週間のうちにほぼ完全に標準語――というか、つまり東京弁ですね――に変わってしまった」「僕はどうも関西では小説が書きづらいような気がする。これは関西にいるとどうしても関西弁でものを考えてしまうからである」という村上春樹の認識が、時間を経て、かなり変化してきたということです。

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 さらに「イエスタデイ」を読んでいくと、木樽が、彼のガールフレンドと、僕の前でこんな話をしています。

 「東京育ちのくせに関西弁しか話さないし、口を開けばいやがらせみたいに、阪神タイガースと詰め将棋の話しかないし」とガールフレンドが言うと、「そんなこと言うたら、こいつかてけっこうけったいなやつやぞ」「芦屋の出身のくせに東京弁しかしゃべらんしな」と木樽が言います。

 でもガールフレンドは「それってわりに普通じゃないかしら」と言うと、「おいおい、それは文化差別や」「文化ゆうのは等価なもんやないか。東京弁のほうが関西弁より偉いなんてことがあるかい」と木樽が反論。さらにガールフレンドは「あのね、それは等価かもしれないけど、明治維新以来、東京の言葉がいちおう日本語表現の基準になっているの」「その証拠に、たとえばサリンジャーの『フラニーとズーイ』の関西語訳なんて出てないでしょう」というのですが、「出てたらおれは買うで」と応えます。「僕も買うだろうと思ったが、黙っていた」とあります。

 このやりとり面白いですね。つまり「木樽」と「僕」は分身関係にあるということですね。ともかく、ここに村上春樹の東京弁と関西弁に対する意識の変化が反映しています。

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 そして金水教授は発表の結論部で、今年「文藝春秋」6月号に発表して話題となった「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」に触れながら、次のように指摘しています。その時の資料を基に記してみましょう。

 「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」では、長らく不和が続いていた父の生涯と死に向き合い、人の生のつながりについて内省的に記していますし、村上春樹は、父に反抗して生まれ育った関西を飛び出し、同時に関西弁をいわば封印して自分の文体を作った。彼はヤクルト・スワローズのファンであることを公言しているが、それもやはり父が阪神ファンであったことの反動とみることができると指摘したのです。

 そして「イエスタデイ」で木樽が阪神ファンであるが故に大阪弁を身につけたというエピソードは、作者の中で阪神ファン=関西弁話者であり、また阪神ファンと聞けば反射的に父を想起するという公式が成立していることを暗示しているし、そこに関西弁のエクリチュール、あるいは父のヴォイスと思しき発話が作品に響き始めていることと、村上春樹氏が自らの父について真摯に語り始められたことは、決して無縁ではないことを指摘して、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件を契機としての<デタッチメント>から<コミットメント>へと作風をシフトさせたことなどや、河合隼雄氏との出会いなども一連の動きとしてとらえられると金水教授は述べたのです。

 金水教授の話を聴きながら、私は、2013年5月、「河合隼雄物語賞・学芸賞」創設を記念した公開インタビューが、京都で開かれた際に、村上春樹が<自分だって、関西弁を話せますよ。話してみましょうか>と言って、ちょっと関西弁で話してみたことを思い出したりしました。

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 このような金水教授の話をたいへん面白く聴いていたのは、ちょうど「文學界」2019年8月号に発表されたばかりの「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「『ヤクルト・スワローズ詩集』」について、考えていたからです。

 金水教授の話は、村上春樹のこの2つの最新短編に触れたものではありませんでしたが、このうちの「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、関西弁か東京弁かという視点で考えていくと、とても奇妙な小説です。

 前回も紹介しましたが、この作品には僕と僕のガールフレンドの兄との会話が記されています。

 そのガールフレンドの兄は関西弁で話しています。例えば、芥川龍之介の『歯車』の一部が収録されている国語の副読本を持つ僕に対して「何を読んでいるんや?」「『歯車』って、たしかかなり暗い話やったよな?」「それ、ちょっと読んでみてくれへんかな?」という具合に関西弁で話しているのです。

 それに対して、僕は「現代国語の副読本です」「ええ、なにしろ死ぬ直前に書かれた話ですから」「声に出して読むんですか?」と、東京弁で応えています。

 でも、この「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、神戸を舞台とした小説なのです。しかも、僕のガールフレンドは高校の同学年です。僕も高校生ですから、まだ関西弁の文化圏から出た体験はないと考えられます。

 そのガールフレンドの家に、彼女を迎えに行ったら、ガールフレンドは留守で、彼女の兄一人がいたという展開です。ここはガールフレンドの兄が関西弁で話していたら、つまり地元の言葉で話していたら、僕も関西弁で話してもいいのではないかと思うのです。

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 仮に、僕が神戸から東京の大学に進学し、夏に帰郷して、ガールフレンドの家を訪ねたという設定なら、僕の東京弁もわかるのですが……。それとも関西では、高校生でも年上の人に対しては、東京弁で応答するということがあり得るのでしょうか……。

 もちろん小説として、そのように書いてあるだけだということも考えられるのですが、でも村上春樹が意識せずに関西弁と東京弁を交ぜて書いているわけではないことは、金水教授が挙げた多くの関西弁の登場人物でよくわかります。やはりとても気になるのです。

 意識的だとすれば、ここに村上春樹は何を表現しようとしているのでしょうか……。そんな考えが、私の中にやってきたのです。

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 そして、もう一つの疑問も同時に自分の中にやってきました。

 「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「『ヤクルト・スワローズ詩集』」には連作短編「一人称単数」その4・その5と名づけられているのですが、この2作は「一人称単数」の視点で書かれている以外に、どのような☆(繋の車のタテ棒が山)がりを他に持っているのだろうか……という疑問です。

 この2作とともに、連作短編集を構成するようになると思われる「文學界」2018年7月号に掲載された「三つの短い話」(「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」)は、例えば、夥(おびただ)しい「四」と「四」の倍数の存在の中に「死」をめぐる話が語られている点などが共通した3作でした。

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 「『ヤクルト・スワローズ詩集』」という短編もよく考えてみると、とても変な小説です。村上春樹がファンであるプロ野球チームのヤクルト・スワローズのことばかりが書かれている小説かというと、そうでもないのです。

 「僕は京都生まれだが、生まれて間もなく阪神間に移り、十八歳になるまでそこで暮らした。夙川(しゅくがわ)と芦屋。暇があれば自転車に乗って、あるときは阪神電車に乗って、甲子園球場まで試合を見に行った。小学生の頃は当然ながら『阪神タイガース友の会』に入っていた(入ってないと学校でいじめられる)。甲子園球場は誰がなんと言おうと、日本でいちばん美しい球場だ」

 とあるように、阪神タイガースのこともたくさん書かれているのです。

 「十八歳で阪神間を離れ、大学に通うために東京に出てきたとき、僕はほとんど当然のこととして、神宮球場でサンケイ・アトムズを応援することに決めた。住んでいる場所から最短距離にある球場で、そのホームチームを応援する――それが僕にとっての野球観戦の、どこまでも正しいあり方だった。純粋に距離的なことをいえば、本当は神宮球場よりも後楽園球場の方が少しばかり近かったと思うんだけど……でも、まさかね。人には護るべきモラルというものがある」

 と記されているのですが、でも、読み進めていくと、

 「僕の父親は筋金入りの阪神タイガース・ファンだった。僕が子供の頃、阪神タイガースが負けると、父親はいつもひどく不機嫌になった。顔つきまで変わった。酒が入ると、その傾向は更にひどくなった。だから阪神タイガースが負けた夜は、できるだけ父親の神経に障らないように心がけたものだ。僕があまり熱心な阪神タイガースのファンにならなかったのは、あるいはなれなかったのは、そのせいもあるかもしれない」

 と記されているのです。

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 「右翼手」という詩は

 その五月の午後、君は

 神宮球場の右翼守備についている。

 サンケイ・アトムズの右翼手。

 それが君の職業だ。

 僕は右翼外野席の後方で

 少し生ぬるくなったビールを飲んでいる。

 いつものように。

 という具合に始まっていて、「ヤクルト・スワローズ詩集」に、一応、相応しい詩ですが、「外野手のお尻」という詩は、阪神のマイク・ラインバックについての部分が一番、力がこもった表現となっているように思える詩です。

 詩を紹介する前には「阪神タイガースにかつて、マイク・ラインバックという好感の持てる、元気な外野手がいた。僕は彼がいわば脇役として登場する詩をひとつ書いた。ラインバックは僕と同い年で、1989年にアメリカで自動車事故で亡くなった。1989年には、僕はローマで生活し、長篇小説を書いていた。だからラインバックが三十九歳の若さで死んだことも、長いあいだ知らなかった。当たり前のことだけど、イタリアの新聞では、阪神タイガースの元外野手の死は報じられない」とあって、詩の中には「阪神のラインバック のお尻は/均整が取れていて、自然な好感が持てる」と記されています。

 ですから「ヤクルト・スワローズ詩集」は、自分が長年、ファンである<ヤクルト・スワローズのことをそのまま歌った詩集というわけではない>と思うのです。

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 「僕は一度、ヤクルト・スワローズ・ファンとして、甲子園球場の外野席で阪神=ヤクルト戦を観戦したことがある。用事があって一人で神戸を訪れていたとき、午後がそっくり暇になった。そして阪神三宮駅のホームに貼ってあったポスターで、たまたまその日に甲子園球場デーゲームがあることを知り、『そうだ、久しぶりに甲子園に行ってみよう』と思いついたのだ。考えてみればもう三十年以上、その球場に足を運んだことはなかった」とも記されて、その時の詩も書かれています。

 さらに「そういえば小学生の頃、この球場で、この外野席で高校生の王貞治を見たことがあった」とも記されています。

 また村上春樹の父親が筋金入りの阪神タイガース・ファンだったことを記し、さらに父親が90年に及ぶ人生に幕を下ろす直前まで、20年以上にわたって「僕と父とはほとんどひとことも口をきかなかった」ことを書いた後に、村上春樹は自分が9歳の秋、セントルイス・カージナルズが日本にやってきて、全日本チームと親善試合をおこなった時、父親と2人で甲子園球場にその試合を見に行ったことを書いています。

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 少年の村上春樹と父親は、一塁側内野席の前の方に座っていたようです。そして試合前に、カージナルズの選手たちが球場を一周し、サイン入りの軟式テニス・ボールを客席に投げ入れていきました。観客は立ち上がって、ボールをとろうとしていましたが、僕はシートに座ったまま、ぼんやりとその光景を眺めていたのだそうです。

 「どうせサイン・ボールなんて小さな僕にとれるわけがない。でも次の瞬間、気がつくと、そのボールは僕の膝の上に載っていた。たまたまそれが僕の膝の上に落ちたのだ。ぽとんと、まるで天啓か何かのように」

 と村上春樹は書いています。

 そして「よかったなあ」と父親は僕に言ったのだそうです。半ばあきれたみたいに、半ば感服したみたいに。

 続けて「そういえば、僕が三十歳で小説家としてデビューしたとき、父親はだいたい同じことを口にした。半ばあきれたみたいに、半ば感服したみたいに」と加えています。

 「それは少年時代の僕の身に起こった、おそらくは最も輝かしい出来事のひとつだったと思う。最も祝福された出来事と言っていいかもしれない。僕が野球場という場を愛するようになったのも、そのせいもあるのだろうか?」と村上春樹は書いているのです。

 この作品の僕はほとんど村上春樹と同じ人間に近い人物と考えていいかと思いますが、村上春樹が、小説の中で、これほど素直に、自分に起きたことを「最も輝かしい出来事」「最も祝福された出来事」と言い、野球場への愛を父親と一緒にいた時間の中に書くということは、これまでになかったことではないかと思うのです。

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 以上、紹介したような視点から「『ヤクルト・スワローズ詩集』」という作品を見てみると、東京のヤクルト・スワローズ(僕)と関西の阪神タイガース(父親)という対立するものの和解のようなものが、作品の中心にあるのではないかと思ってしまいます。

 そして「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の方も「東京弁」で語る僕と、「関西弁」で語るガールフレンドの兄とが、18年後ぐらいに再会して、記憶が飛んでしまう病気だったガールフレンドの兄が、その病から脱出して、記憶喪失中に「お父さんの頭を金槌でどついたり」する心配から解放されたという回復の物語となっています。

 父と僕との和解、関西と東京の和解と言ったらいいのか、そのように繋がっている2つの小説なのではないかと思ったのです。

 記したように、金水教授の話には発表されたばかりの「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「『ヤクルト・スワローズ詩集』」に対する言及はありませんでしたが、金水教授が指摘したことに、繋がる2作だと思います。

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 ただし、金水教授が関西弁小説の例の最初に挙げた『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』の刊行は1995年6月ですが、この関西弁の超掌編小説「ことわざ」は、雑誌「太陽」のパーカー万年筆の広告のページに、安西水丸さんのイラストとともに連載されたものの1つで、その掲載は「太陽」の1993年9月号です。

 ですから、1995年に起きた阪神大震災や地下鉄サリン事件と「関西弁」の関係を考える起点にはならないかと思います。

 『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』の「あとがき」はアメリカ滞在中に「これらのシリーズを連載しているときはたまたま僕は集中して長篇小説を書いていたので、そのあいまにこれくらい短いものをちょこっと作り出すのは、逆にあたまの力が抜けて気分転換によかった」と村上春樹は書いています。

 その集中して書いていた長篇小説は『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)のことだと思われます。『ねじまき鳥クロニクル』では日中戦争のことが書かれていますので、中国戦線に従軍した村上春樹の父親のことも、村上春樹はもちろん考えていたと思います。それが「ことわざ」の全編関西弁としてあらわれているのかもしれません。もちろん、無意識の部分もあるかと思いますが。

 でも、金水教授が指摘した「関西弁」の村上春樹作品の登場と、その登場ぶりの変化、自らの父について真摯に語り始めたこととの関係の重要度などの意味は、とても大切なものだと、私は思っております。

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 金水教授も、指摘しておりましたが、「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」には「甲子園球場によく一緒に野球の試合も見に行った。父は死ぬときまで熱心な阪神タイガース・ファンで、阪神が負けるとひどく不機嫌になった。僕が途中でタイガースを応援するのをやめてしまったのは、そのせいもあったかもしれない」とあります。

 これは「『ヤクルト・スワローズ詩集』」と重なるような記述ですので、父親の従軍体験を書いた「猫を棄てる」と「『ヤクルト・スワローズ詩集』」は呼応する作品なのでしょう。

 そして「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「イエスタデイ」は、ともにビートルズに関係した題名で、関西弁と東京弁をめぐる小説と言えるようになっています。その対応関係もきっとあるのではないかと、私は考えています。

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 以上で、今回、私が紹介してきた村上春樹作品と「関西弁」表現についての考えは尽きているのですが、でも前回記していた「僕のかつてのガールフレンド・サヨコはどうなったのかなども記さなくてはなりません」。今回もここまででかなり長いですが、でも約束ですから、そのことを記しておきましょう。

 サヨコは、再会した彼女の兄の話によると、3年前に死んでいました。その話から、僕はサヨコと最後に会ったときのことを思い出しています。

 「彼女は二十歳だった。少し前に運転免許をとったばかりで、彼女は僕をトヨタ・クラウン・ハードトップに乗せて(それは彼女の父親が所有する車だった)、六甲山の上まで連れて行ってくれた。運転はまだ心許なかったが、それでもハンドルを握っている彼女は、とても幸福そうに見えた。カーラジオからはやはりビートルズの歌が流れていた。そのことをよく覚えている。曲は『ハロー・グッドバイ』だった」とあります。

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 「まだ三十二歳やった」とサヨコの兄は関西弁で話していますが、「医者からもらった睡眠薬を貯めておいて、それをまとめてそっくり飲んだんです。だから自殺は計画的なものやったんやな。最初から死ぬつもりで、半年くらいかけて薬をちょっとずつ貯めていた。ひょっと思いついて、その場で衝動的にやったことではない」と、東京弁に少し関西弁が交じる言葉で話しています。

 そのサヨコの死に方は芥川龍之介みたいな亡くなり方ですね。彼女は26歳の時、勤めていた損保会社の同僚と結婚して、子供を2人産み、その子供たちを残しての自死でした。

 そして、僕とガールフレンドは最後の日、六甲山の上にあるホテルのカフェで別れ話をすることになり、僕は東京の大学に進んでいたが、そこで一人の女の子を好きになってしまったことを打ち明けると、彼女はほとんど何も言わず、ハンドバッグを抱えて席を立って去っていきました。

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 そのあとに「遅かれ早かれ彼女とは別れることになっただろうと思う」と記されています。これは、この作品をよく読めば、作中に別れる理由が記してあるという意味かと思います。

 僕がガールフレンドの家を訪ね、彼女が留守だったので、その兄に芥川龍之介の『歯車』の一部を朗読して帰ってきました。

 「二時過ぎに、ガールフレンドから電話がかかってきて、『うちに迎えに来ると約束したのは、次の週の日曜日だったでしょう』と言われた。もうひとつ納得できなかったが、彼女がはっきりそう言うのならたぶんそうなのだろう。こちらがうっかり予定を間違えたのだろう。日にちを一週間間違えて、彼女のうちまで迎えに行ったことを、僕は素直にあやまった」とあります。

 「もうひとつ納得できなかった」のは「しかしどれだけ考えても、約束の場所と日時に間違いはなかった。その前日の夜に僕らは電話で話をして、そのことを確認したばかり」だからです。

 2時過ぎに、かけてきた電話で、最低限、ガールフレンドは自分が間違ったかもしれない可能性を述べて、僕を謝らせるだけでなく、自分の発言や行動についても考え、言及しなくしてはならないでしょう。

 ガールフレンド・サヨコの兄は記憶が途切れる病を抱えて、その間に、もしかしたら父親の頭を金槌で叩いたりしてしまうのではないか……というふうに、自分の行いを見つめ、考え悩む青年です。でもガールフレンドはほとんど、自分に対する疑いは持っていない人物なのかもしれません。

 このあたりが僕とガールフレンドとの別れの理由ではないかと、私は考えています。

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 その2人が別れた場所はガールフレンドが連れていった「六甲山の上のホテル」です。僕とガールフレンドの兄が再会したのは東京の「渋谷」です。この2つは「高い場所」と「低い場所」として、対応関係を持って、選ばれた場所ではないでしょうか。

 僕がガールフレンドの兄に読んだ『歯車』には「飛行機病」というものが出てきます。ガールフレンドの兄も「君があのとき読んでくれた芥川の『歯車』の中に、飛行士は高空の空気ばかり吸っているから、だんだんこの地上の空気に耐えられんようになる……みたいな話が出てきたやろう。飛行機病というやつ。そんな病気がほんとうにあるのかどうか知らんけど、しかしその文章を今でも覚えているよ」と、渋谷で語っています。

 僕のガールフレンドは「飛行機病」で死んだということではないでしょうか。だんだんこの地上の空気に耐えられないようになって。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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