麥田俊一の偏愛的モード私観 第6話「アンリアレイジ」

2019-20年秋冬コレクション PHOTO: Seiji Ishigaki(BLOCKBASTA)

 過日、池の水を入れ替えた。拙家の庭にある、畳2畳ほどの侘しい古池である。梅雨明けに掃除するのが常なのだが、今年は水の濁りが殊更酷く、梅雨の晴れ間を物怪の幸いに「それでは」と、ホースとタワシを手に取った。底に溜まった泥水を柄杓で抄っていたら、汚泥の中に何かが蠢く気配。恐る恐る掌に乗せて、真水で洗ってみたら、愛らしくも小さなヤゴが現れた。睡蓮の鉢底にソッと戻しておいてから、額の汗をタオルで拭って一服。サッと一陣の涼風が襟首のあたりを撫で行くかと思うと、ポツリと大粒の雨が降ってきた。

 ヤゴはトンボの幼虫である。成虫のトンボは空を飛ぶが、ヤゴは成虫になるまで水中に生息する。トンボは、秋から冬にかけて、使われていない学校や公園のプールなどにも産卵する。卵は春になるとヤゴになり、6月から7月にかけて羽化して成虫になる。ところが、恰度この時期は、水泳の授業に備えて隅々まで清掃が行なわれる。そのために住み処をなくしたプールのヤゴは成虫になれずに死んでしまう。往時私が通っていた小学校では、教員監視のもとで、生徒が手ずからプール掃除をしたものだった。私がヤゴの憐れな実態を知ったのは、その頃だった。救助したヤゴを自宅で羽化させたクラスメートがいた。

 何もトンボの話をしたいわけではない。此度の題目は「アンリアレイジ」の森永邦彦である。彼の、他に類を見ない創作のユニークな一面については、今更ながら贅言を要しないだろうし、あまつさえ、私の禿筆で語り尽くすなど、土台無理な話。カラカラに乾いた雑巾を、それでも尚と絞ってみたが、一雫はおろか、湿り気さえも見出せず頭を抱えていたところ、先刻のヤゴの一件が頭に浮かんだ。

 最初に取材したのは2005年だった。折しも、既に東京のファッションウイークも終わり、翌春夏向けのショーを発表するには時期外れの11月。それも、東京タワーの大展望台を会場としたのは良いのだが、施設の使用目的を曖昧にしたまま敢行したショーだった。これを以て初めてのショーとしているが、実は、それ以前に青山の某所にて一度ショーを発表している。但し、森永本人が来歴より消し去っているから、文字通り幻のショーなのだが、実はこの時も取材をしていた。ブランドデビュー間もない頃よりの付き合いだから(勿論、取材を通してだが)、彼此15年となろうか。

 ブランド名の「アンリアレイジ」は、日常(リアリティー)と非日常(アンリアリティー)に時代(エイジ)を重ねた造語。名が体現する如く、日常の中にあって、非現実的な日常と云うふとした捩れに眼を向け、見逃してしまいそうな些事よりデザインの起点を抄い取ることを創作の根幹に据えている。巷間の流行に徒に共鳴するのではなく、独自性の追求に軸足を置く構えは今以て不変だ。

 夜の薄闇に紛れて服の細部も判然としなかった、あの東京タワーのショーは未熟だった。だが、やけに熱かった。鈍重を絵に描いたような朴訥な創作意欲が向後、剃刀の刃のような一流ブランドを出し抜いて如何に野太い線を描いてみせるか、それこそは私にとっての一等の関心事だった。と云うか、森永が描こうとするファンタジーに賭けてみたくて、往時の私は喜んで共犯者を買って出たのだ。「意味がないものは見せるな」「もう見飽きた」などと面罵したこともしばしば。「踏み込まぬが都会の流儀」式は、私の柄ではないからドシドシ踏み込んで、森永には随分と酷なこと云ってきた。勿論、向後もその積もりでいる。

 稚拙だが逞しい森永の筆致は一向に揺るがない。見るほどに、そんな文学青年的な青臭さとか半可臭さに、時折恥ずかしくなることもあるけれど、息もつかせぬ面白さに巻き込むツボも確と心得ている。いっそ「面白かったら文句はあるまい」と、ふてぶてしい迄のド根性がショーの全篇を貫いていれば良いのだけれど、厚顔無恥は端より彼の専売特許ではない。だがしかし、真剣なのだ。真面目なのだ。面白い筈なのだ。日常と非日常の境界線を主題として、服を通して対極にあるモノの間にある境界線を、越境し、揺さぶり、新たな線を引こうとする試みは、2015年春夏コレクションより新作発表の場をパリに移しても尚、試行錯誤の繰り返し。但し、最新コレクション(2019-20年秋冬)は、これまでとはちと様子が違うのである。

 それは、何かを吹っ切って居直った感じさえ与えた。発想と服作りの過程を度外視したら生まれてこない面白さが漸次戻ってきたようで、「神は細部に宿る」の主題も懐かしい。ブランドの原点である「細部」と「形」を彼なりに再考して生まれたのだから。襟とか袖とか、フードとかポケットとか、服の部位(細部)をモチーフとして切り取り、それを100倍以上のスケールに引き延ばし、目指すカタチの完成形を念頭に置きながら仕立てた服は、文字通り「細部を着る」と云う提言。如何に発言するかと云う方法論に固執するのも良いけれど、何を発言するかと云う思想とか問題提起に再び軸足を置き始めている。低空飛行から、一気に上昇気流を掴もうとする兆しが少しく感じられたのである。まぁこれ迄が実験的過ぎたから、まだ色眼鏡で見る人も少なくないのだけれど、土台骨ばかり大きくて一向に尻腰のない凡庸な創作意欲とはわけが違うことに早晩気付くことにもなろう。

 閑話休題。物の本で読んだことがあるが、我々日本人が、トンボを愛でる理由は、まず、その飛行の妙にあると云う。眼にも止まらぬ速さで急転回したかと思うと、不意に空中で静止する。そして遂には、碧空高く舞い上がる。トンボ返りとは、蓋し云い得て妙なり。ワープ機能が備わっていれば未だしも、そんなハイテクは、トンボには相応しくない。AI制御の超音速ジェット機など遠く及ばぬ絶妙の飛行を、何食わぬ顔でやってのけるトンボ…。

 彼がパリに発表の場を移す以前のことだが、森永について「超低空を飛ぶ人」と題して寄稿したことがある(『A REAL UN REAL AGE』PARCO出版刊)。「超低空を飛ぶ」は、たまさかニュース映像に映った、川面すれすれに飛行するドローンを見ていて閃いた。中身はと云えば、ジェット気流に乗っかり遥か高みを翔ぶよりも、街並みを舐めるような超低空飛行を今は続けて欲しい、と、こちらの勝手な気持ちを書き殴ったものだった。低空飛行には、それなりに高等技術が必要だから、時代を睨んで切磋琢磨して欲しいと。今にして思えば、随分と不躾な檄文である。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

© 一般社団法人共同通信社