『むらさきのスカートの女』今村夏子著 見つめ続ける、という孤独

 徹頭徹尾、人間観察記録である。語り手の「わたし」は、商店街でよく見かける「むらさきのスカートの女」が気になってならない。「わたし」は彼女のことに、ものすごく詳しい。行きつけのパン屋。そこで買うクリームパン。それを持って公園のベンチに座り、彼女がどんな順序でクリームパンにかぶりつき、最後の一口までを堪能するのか、すべて知り尽くしている。自宅だって調査済みだ。家賃や公共料金の支払いっぷりもしっかり把握。化粧っ気がなく、決まった服装で、のっそりと歩く「むらさきのスカートの女」は近所の商店街でもひそかに注目の的らしく、地元の子どもたちはこっそりと近づき、彼女の肩にタッチしては走り去るゲームに興じている。

 「むらさきのスカートの女」は、人生に不器用である。自分を受け入れてくれそうにない、無茶な職場ばかりにアクセスし、面接を受け、そして落ちる。「わたし」はある日、自分が働く職場に彼女が応募するように仕向け始める。しかしその作戦は実に消極的だ。彼女がクリームパンを食べるとき、決まって座る公園のベンチに、ひっそりと求人誌を置いておくだけ。該当する記事に丸印をつけて。

 「わたし」は、「むらさきのスカートの女」に声をかけたいと思っている。もっと言えば、友人になりたいと思っている。けれど念願かなって自分の職場に「むらさきのスカートの女」が採用されても、「わたし」は彼女に声すらかけない。連ねられるのは今までどおり、観察記録のみだ。

 巧みだなあと思うのは、読者の興味が「むらさきのスカートの女」の正体から、「わたし」が何故にこうまで観察に徹しているのか、その謎へとスライドしていく過程だ。仕事を得て、居場所を獲得し、同僚の支持を得て、子どもたちとも仲良くなって、生き生きとし始める「むらさきのスカートの女」を、朝の出勤から夜の帰宅までみっちりと見届けながら、「わたし」は何ヶ月もの間、動こうとしない。

 常に、謎がある状態。誇張のない、シンプルな言葉選び。リズム感、そしてテンポ感。一気読みへの道が、まっしぐらに伸びている。

 観察すればするほど、「むらさきのスカートの女」についての謎は、むしろ増えていく。「むらさきのスカートの女」の行動パターンを知り尽くしていたはずの「わたし」が与り知らないところで、「むらさきのスカートの女」の人生が動いている。あわてる「わたし」。しかし、何がどうひっくり返っても、それは他人の人生なのである。

 やがて、「むらさきのスカートの女」は孤立する。そしてとある事件が起こり、そこから怒涛の展開が待ち受ける。

 夢中で読み終えて顔を上げると、目の前には、まるで何ごともなかったかのような景色が広がっているのだ。

(朝日新聞出版 1300円+税)=小川志津子

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