麥田俊一の偏愛的モード私観 第5話「ホワイトマウンテニアリング」」

「ホワイトマウンテニアリングの2012-13年秋冬コレクション(左)と2019-20年秋冬コレクション」

 執念く降り続く雨が、幼少期の塩辛い記憶を呼び覚ました。梅雨入り間もない折、母と長靴を買いに出掛けた。私の小さな手が取り上げたのは真っ赤な長靴だった。往時背丈が並の男児より低かったので、寸法は女児向けで充分に足りた。黒いゴム長の、あのデラっとした油虫(ゴキブリを当時はそう呼んでいた)みたく嫌ったらしい艶が無性に慊りなかった。夕餉を済ませた居間で「案外洒落てらぁ(とんだ勘違い)」なぞと、嬉々として真っ新な長靴を弄んでいたまではよかった。皆と同じことが出来ぬ私の性質が、その日の顛末を母より聞き及んだ父を激怒させた。「男のくせに赤なぞ履く奴があるか」の更なる追い撃ちが、俯くだけの私を尚と悴けさせた。結局、件の長靴が履かれた例はついぞなかった。この依怙地な性分が火に油を注ぐ仕儀となり、またぞろ父の怒りを買うことになるのだが、その時分に萌芽した特異体質的な「眼(め)」が、今の自分の拠り所になっていると、少しばかり自負もしているのである。

 些末な話でもたついたが、靴に纏わる挿話は今回の起点。「ホワイトマウンテニアリング」のデザイナー、相澤陽介が此度の主役だ。

ファッションの神様は、一人の少年の中に素質の原石を見て、少々手荒く磨いてくれたものらしい。皆と同じが慊りなかったのか、それとも彼の父が買い求めてくれたピンク色の「コンバース・オールスター」に一目惚れしたのか。級友に「ピンク」と手酷く揶揄されても、毎日履き続けたと云うから、やはり余程その靴が気に入っていたとみえる。尊父の米国ナイズされた審美眼は、少年の心を鷲掴みにしたらしく、その頃の記憶は、恰も通奏低音のように、現在の彼の内でチクタクと音を響かせる古びた掛け時計のようなものとなっている。

 相澤が「ホワイトマウンテニアリング」を開始したのは2006-07年秋冬シーズンのことだ。「服を着るフィールドは全てアウトドア。デザイン、実用性、技術の3つの要素を一つの形にし市場には屈しない姿勢でのものづくり」を掲げてのスタート。勿論、そのコンセプトは今以て変わりはない。アウトドアテーストをファッションの土壌に根付かせようとする試みは、デビュー時にして既に、GORE-TEXとウールを掛け合わせた服地使いに確と見受けられた。それは、やれ「アウトドアがモードに寄り添う」とか「アスレジャーが新しい」とかの謳い文句が巷間に踊る以前のことだった。何よりブランド名が素晴らしい。男臭くて、曖昧なイメージがない。

 2020年春夏コレクション(2019年6月22日に発表)は、東京よりパリに新作発表の場を移して10回目を数える。因みに東京での初めてのショーは、ブランド開始後7シーズンを経た2010年春夏シーズンだった。以降、毎回ショーを続けるうちに、「見せること」に軸足を置くことに自信が持てないでいた彼の内部に「何か」が明らかに萌した時期が訪れる。即ち、「アワードツアー」と題したショー(2012-13年秋冬コレクション)が大きな転換となったのだ。

圧巻なショーだった。遊び心のある創意、それはたとえば、「安定感」とか「現実的」とかが、このブランドにとってのシノニムであったなら、その図式を見事に打ち砕くだけの放胆さに後押しされたものだった。リアルな服を題材に「着ること」と「見せること」の辻褄をピタリと合わせてみせた。多分「見せること」に気後れしたままショーを続けていたなら、ブランドはギスギスとして痩せ細っていった筈だ。

 ショーの舞台は架空の国際空港。そのターミナルを行き交う旅客をイメージしてプロットは編まれた。「この時は、完璧に異なる二つのコーディネートを用意した。一つはNYにてルックブック用に撮影した、日常を意識したスタイル提案。そしてもう一つが、同じアイテムを使いながらショーのために組み直したコーディネート。様々な国籍の旅客に加えて空港の保安係や清掃作業員、操縦士の制服をイメージしたエンターテインメントを織り交ぜてみた」と相澤。パロディーとリアリティー、疾走感と不思議な間合いの狭間を巧く衝いた、彼自身も会心の出来栄えだった。だが、翌シーズンを最後に、突如ショーを休止してしまう。「トレーニングデー」と題したコレクションだった。

 コートを模した会場では開始間際まで、バスケットの公開練習が続いた。ショーの味付けにスポーツのリアルな躍動感を演出として用意したのだ。後日、ショー休止の理由を彼はこう語っている。「アイデア、デザイン、スタイリングの総てに於いて、出来る限りのリアリティーを与えたい。それが僕の服作りのコアな部分。(あのショーは)演出が及ぼすイメージが大きな要素だったが、ショー自体は、見せる部分を可能な限り削ぎ落として、リアルなメンズウエアだけを抽出して舞台に乗せたいとの思いで服の構成を考えていた。周囲の評判は予想以上に良かったけれど、自分では納得出来なかった。そろそろショーで見せることの意味を再考する時間が必要だと感じ始めていた頃だった」

 翌シーズン、相澤は、フィレンツェにて開催されるピッティ・イマージネ・ウォモの招待デザイナーとして、海外にて初のショーを発表しているが、「トレーニングデー」を最後に東京でのショーを休止する決断は、ピッティの招聘を受ける前に既に固まっていたのだった。海外での初めてのショーであっても、「自分の服にエンターテインメントは必ずしも必要ない」と、相澤の姿勢は崩れなかった。思わぬ奇貨であろうと、寧ろ、頑なに我を通した。彼は心底からのリアリストなのだ。

「見せること」対「売ること」式の、所謂デザイナーとしての意識の葛藤は、今に始まったことではないが、だが結局は、こうしたことをしかつめらしく云々するよりは、少しく短絡的ではあるけれど、服が面白ければそれで良いだろうと開き直ってしまえば、ことファッションに於いては、そんなことは不毛の議論に過ぎないのだと早晩気が付くことにもなる。相澤を根っからのリアリストと評しておいて、舌の根の乾かぬうちに何事かとお叱りを受けるのも承知で云うと、「現実主義者」みたいなポーズの原型が、相澤の言質に見え隠れしているが、一種のラジカリズムへの陶酔は隠し難いものがあるように思えてならない。これは、一枚の硬貨の裏表みたく、極端なものが表裏を為しているようなもので、そうでも云わなければ、殊に彼の最近のコレクションなどは、到底理解し難くなってくる。現実と仮構の境界をスルリと踏み越えることで、アウトドアの服のコードをモード的な新たな文脈に置き換えながらも、あからさまにアナーキーに傾倒する一瞬が、まさに眼(め)に浮かぶのである。

 私に高校生の息子がいて、箪笥に何時の間にかズラリと「ホワイトマウンテニアリング」の服が並んだとなると、幾らこの業界に一宿一飯の義理があるからと云って、「趣味が良くなったな」とただ感心しているわけにはいかなくなるのが、斯様な仕事を活計の糧とする因果な父親の悲しき性である…と、本来ならばそうしたボケでも弄してみたいところだが、端より独り者の私なぞにそんな心配は無縁。だが、今になって、こうしたアウトドアやスポーツに紐付いたブランドを取材していてつくづく良かったと思う。このブランドがこちらの琴線を鳴らし続けてくれたればこそ、ユニフォームだのアウトドアだの、その機能性と細部の因果関係が、如何に半ちくな私の頭にもしっかりと刻み付けられたのだから。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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