麥田俊一の偏愛的モード私観 第4話「ビューティフルピープル」

「リラックマとカオルさん」より(左)、「beautifulpeople 2019-20 AW Collection」(右)

 汗に纏わる話。汗が似合う男、「ビューティフルピープル」のデザイナー、熊切秀典が今回の主役だ。「汗が似合う」などと云っては、本人は顔を顰めるかも知れないし、況してや、彼を知らないひとは、汗臭い筋骨隆々な男の姿を想像するかも知れないから断っておくと、ぽっちゃり型ではあるけれど、彼の外見はあまり汗が似付かわしくない。寧ろ、握手の折の、握り返してくる手などに繊細さを滲ませるタイプ。では、何故「汗」なのか。この場合の汗は、創作に於ける試行錯誤の「汗」を云う。少しく調子外れな喩えだが、彼に関する限り、そう形容するのが適切なように思う。

 アニメーション作品「リラックマとカオルさん」(Netflixにて2019年4月19日より全世界独占配信を開始)の主人公、カオルさんの衣裳を「ビューティフルピープル」が提供している。ファッションデザイナーが、映画や芝居、音楽の舞台衣裳を手掛けるのは珍しいことではないが、今回の場合は、ちと様子が違う。生身の女性よりも随分と小さな、ストップモーション・アニメーションに於ける人形(カオルさん)のための衣裳だからだ。衣裳には、ブランド独自の「キッズシリーズ」のデザインを提供。このシリーズの特徴である形のユニークさは勿論、男の子のアイテムをインスピレーションに作ったこだわりの証である、左上前の合わせ(男前合わせ)、上衣の袖口よりシャツやニットがチラリと見える分量感など、細部に至る迄リアルに再現されている。

「キッズシリーズ」とは、「ビューティフルピープル」の代名詞の一つ。創業(2007年春夏シーズンより開始)以来、現在に至る迄、その人気は衰えを知らない。要は、「相反する要素を組み合わせ、新しいモノを提案する」と云うブランド理念を具現する「大人のための子供服」。単に大人服を、子供サイズに縮小するのではなく、大人と子供の体型の違いを考慮したパターン(型紙)で作られている。東京でのデビューショーを見て驚いた。大人の女性モデルが着こなしていた革製のライダースジャケットのコンパクトな形は、実に新鮮で、服の構造に向けられた独自の視点がユニークそのもの。果たしてこれは、偶然の産物だったのか。それとも、汗水漬くの奮闘により生まれたのか。何処にでもありそうなベーシックな服。しかし、何処にもないユニークな服。ブランドの信条がそれだから、やはり、熊切たちスタッフの汗の結晶とした方がスッと腑に落ちる。

 服作りとは試行錯誤である。そしてこの、創作に於ける試行錯誤の汗を、我々は作品と呼ぶことが出来る。してみると、試行錯誤の汗でないような作品、如何なる肉体の努力よりも強い意志を必要とする鍛錬された発想に裏打ちされていない作品、底の浅い作品は総じて、徒に装飾的で空想的だと云えるだろう。熊切に「汗」が似合うと云うのは、そうした訳なのである。「ビューティフルピープル」は、2017年春夏シーズンを最後に東京でのショーを休止し、翌2017−18年秋冬シーズンにはパリにてモデルを使った新作発表を開始。以降、パリにてショーを続けている。

 今、東京のファッション界を俯瞰すると、熊切秀典と云う特異なデザイナーは、所謂純文学作家的なデザイナーの範疇にも巧く入り切らず、そうかと云って、所謂エンターテインメント作家的なデザイナーにもすんなりと割り付けることの出来ない、極めて曖昧な立ち位置にあるように私には見える。文学を引き合いに服を語るのは如何なものかと云われるだろうが、臆面もなく「創作の汗」などと大風呂敷を広げたものだから、こうでもしなければ収まりがつかない。ここで云う、純文学的とは、時流(流行り廃り)に媚びず、作り手が純粋に、彼固有の美的な思索を追い求める作風を云う。純文学的なデザイナーの範疇に入り切れないのは、ストーリーテラー(服の面白さで見る者を引き込むと云う意味)として、抜群の旨味がある彼の作品が、要するに面白過ぎるからなのだ。

 彼の創作は、飽く迄も日常的な現実に立脚している。但し、日常に根差す時、作り手は往々にして一つの罠に嵌ることがある。つまり、現実への傾斜を深めるあまり、物語性の薄い、想像力や知性を閉め出した、面白くも可笑しくもない作品に、意図せずとも、結果として辿り着いてしまうと云う陥穽だ。勿論、熊切は、その例にあらず。また、よしんば意図して純文学めいたシリアスな作品を作り上げることがあるにせよ(後述するけれど、2019−20年秋冬コレクションの如き、一見するとクラシックな服が好例だろう)、それが巧く従来の純文学的の範疇に入り切らないことは、上述した通り。作品に飛び切り魅力的な余白を用意しているから、そうした特異なポジションにいられる。彼の創作は、噛めば噛むほどに滋味が滲み出すスルメ式。汗臭さでは物足りず、今度はスルメかと、番度閉口する読者諸氏の顔を尻目に話は更に続く。

 プリズムを僅かに傾け、ほんのちょっと陽の光の方に向ければ、光が屈折した色彩のスペクトラムを投げ掛ける。それと同様に、時にはたった一つの事実を加えただけで、心の光が屈折する。たった一つの事実だけで、総ての視点を再構成するには充分だと云うことだ。たった一つの方向からのみ見たに過ぎない。いや待てよ、眼と心が特定の見方に囚われ、これまでの旧弊な見方と云う罠に嵌まっていたように、今度は新しい見方の罠に嵌まり込んだようだ。だが今では、極めて明白に思えた。はて、どうしてこれ以外の見方が出来たのだろうか。つまりは、メビウスの輪のような仕掛けなのだ。仕掛けと云っても、手品師的な大袈裟なものではない。単純なことを複雑に云うのではなく、複雑なことを単純に云う発想。これも試行錯誤の「汗」が生み出した。

 2019−20年秋冬コレクションの主題「Side C」は、前回より続く進化版。この主題は、A面とB面(表裏)があるアナログレコードに喩えている。即ち、A面でもB面でもなく、その何方かでも両方でもない、本来なら存在しないSide Cと云う視点は、クラシックなものの見方を特別なものにする考え方だ。

 このショーでは、普通なら隠れている服の内側に着眼し、インナーを正面に据え露わにしている。また、裏地と服の隙間に身体を入れる設計が、通常は後ろにある裏地が表に現れ剥き出しになり、内と外を入れ替えるために、服の脇にあるべき縫い目は縫わずにそのまま深いスリットになっていて、ゾクッとさせる肌の露出も計算済のデザイン。このあたりも、心憎い演出。複雑なことを単純に云い換えれば、表現が圧縮される。表現が圧縮されれば、その濃度は濃くなる。この主題は向後も連作として続くものだと云うから、磨き抜いて欲しい。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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